日本史
1911年日米通商航海条約

1911年に締結された日米通商航海条約の歴史的背景、関税自主権の回復、および1940年の失効に至る経緯を解説します。
📌 主なポイント
- ✓1911年2月21日にワシントンD.C.で調印された。
- ✓この条約により日本は関税自主権を回復した。
- ✓1940年1月26日に失効し、日米間は無条約時代となった。
1911年日米通商航海条約は、明治時代後期に日本とアメリカ合衆国の間で締結された通商条約である。この条約は、日本が長年目指してきた関税自主権の完全回復を象徴する重要な外交成果として知られ、当時の外務大臣である小村壽太郎の主導によって実現したことから「小村条約」とも呼ばれる。
締結の背景と経緯
19世紀末から20世紀初頭にかけて、日本は不平等条約の改正を国家的な最優先課題としていた。1911年7月16日に満期を迎える旧条約の改定に向け、第2次桂内閣は条約の完全改正を目指した。1910年、小村壽太郎外相は条約規定に基づき、アメリカを含む13か国に対して条約の廃棄を通告した。
交渉は順調に進み、1911年2月21日、ワシントンD.C.において日本の内田康哉駐米大使とフィランダー・C・ノックス国務長官の間で新条約が調印された。この条約により、日本は関税自主権を回復し、列国と対等な立場を確立した。


移民問題と紳士協約
条約交渉において、日本人移民の制限は重要な論点であった。日本政府は、アメリカ国内での差別的立法を回避するため、1907年および1908年に「日米紳士協約」を結び、自主的な移民制限を行っていた。新条約の批准にあたり、日本はハワイからアメリカ本土への転航禁止措置の維持を再確認し、アメリカ側の懸念に対応した。
条約の失効
1930年代後半、日中戦争の拡大に伴い日米関係は急速に悪化した。1939年7月26日、アメリカのコーデル・ハル国務長官は、日本の中国侵略に対する抗議として、本条約の廃棄を通告した。日本側は暫定協定の締結を試みたものの合意には至らず、通告から6か月後の1940年1月26日に条約は失効した。これにより、日米間の通商関係は法的基盤を失い、無条約時代へと突入することとなった。
よくある質問
なぜ「小村条約」と呼ばれるのですか?
当時の外務大臣であった小村壽太郎が条約改正交渉を主導し、関税自主権の回復を成し遂げたことに由来します。
この条約が失効した理由は?
日中戦争の拡大に伴い、アメリカが日本の中国侵略に抗議する手段として1939年に廃棄を通告したためです。
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参考文献
明治44年4月4日官報号外条約第1号