愛国公党の歴史と政治的背景
📌 主なポイント
- ✓明治7年(1874年)1月12日に板垣退助や副島種臣らによって結成された。
- ✓同年1月17日に『民撰議院設立建白書』を政府に提出した。
- ✓明治23年(1890年)にも旧自由党土佐派を中心に同名の政党が結成されたが、同年9月に立憲自由党へ合流して解消された。
愛国公党(あいこくこうとう)は、明治時代初期および中期の日本において組織された政治結社、ならびに政党である。一般には、明治7年(1874年)に結成された日本初期の政治結社が特に知られており、明治23年(1890年)にも同名の政党が組織されている。
明治7年(1874年)の結成
明治6年(1873年)の政変(いわゆる征韓論政変)により、明治政府を離脱した板垣退助や副島種臣らは、幸福安全社を基礎として明治7年(1874年)1月12日に東京・京橋区銀座の副島種臣邸に同志を集めて愛国公党を結成した。
同党は、五箇条の御誓文の精神に基づき、基本的人権の保護と民撰議院の設立を政府に要求することを掲げた。同年1月17日には、板垣や副島らのほか、後藤象二郎、江藤新平、小室信夫、由利公正、岡本健三郎、古沢滋らの署名による『民撰議院設立建白書』を政府へ提出した。
活動の変遷と影響
愛国公党は日本における初期の政治結社の一つとされているが、創立メンバーの一人であった江藤新平が佐賀の乱に参加したことなどから、表向きの活動を継続することが困難となった。そのため、高知県においては表向きの政治結社として立志社に引き継がれる形をとった。
その後、板垣退助は大阪を拠点として愛国社の結成に尽力し、これがのちに国会期成同盟を経て、日本最初の本格的な全国政党である自由党の起源へとつながっていった。
明治23年(1890年)の愛国公党
明治23年(1890年)5月5日には、旧自由党土佐派を中心として同名の「愛国公党」が再び設立された。大同団結運動分裂後の事態に対応するため、板垣退助や植木枝盛らが旧自由党員を結集させることを契機として創設されたものである。
結党後は直ちに他の政治勢力との合同交渉が進められ、同年8月4日に解党。最終的に九州同志会などを加えた数派が合同し、同年9月15日に立憲自由党が結成されることとなった。