日本の歴史

秋月の乱:明治初期における旧秋月藩士族の蜂起と経緯

秋月の乱:明治初期における旧秋月藩士族の蜂起と経緯
1876年に福岡県秋月で発生した明治政府に対する士族反乱「秋月の乱」の歴史的経緯や背景、結末について解説する百科事典記事です。

📌 主なポイント

  • 秋月の乱は1876年10月27日から11月14日にかけて福岡県秋月で発生した士族反乱である。
  • 熊本県の神風連の乱に呼応し、今村百八郎や宮崎車之助ら旧秋月藩士族が蜂起した。
  • 乃木希典率いる小倉鎮台が秋月党を攻撃し、最終的に政府軍の勝利に終わった。
  • 首謀者とされた今村百八郎と益田静方は処刑され、約150名が懲役や除族などの処分を受けた。

秋月の乱(あきづきのらん)は、1876年(明治9年)10月27日から11月にかけて、福岡県秋月(現在の福岡県朝倉市秋月)において発生した、明治政府に対する不平士族による武装蜂起(士族反乱)の一つである。

仮名垣魯文『西南鎮静録 續編上』より秋月の乱の図版
仮名垣魯文『西南鎮静録 續編上』より秋月の乱

背景と蜂起

1876年10月24日に熊本県で発生した神風連の乱に呼応する形で、旧秋月藩の士族である宮崎車之助、今村百八郎、益田静方らを中心とした一党が挙兵を計画した。同年10月27日、今村百八郎を隊長とする「秋月党」が組織され、明元寺において説得にあたっていた福岡県警察官の穂波半太郎を殺害した。これは福岡県警察における最初の殉職者となった。

豊津への移動と戦闘

旧秋月藩の士族らは、あらかじめ旧豊津藩の士族である杉生十郎らと同時決起の約束を結んでいたため、蜂起後に豊津へと向かった。しかし、豊津側ではすでに決起しない方針が固まっており、杉生らは監禁されていた。豊津側との談判の最中、連絡を受けた乃木希典率いる小倉鎮台の軍勢が到着し、秋月党を攻撃した。この戦闘により秋月党側は死者17名を出し、江川村栗河内へ退却を余儀なくされた。政府軍側の死者は2名であった。

鎮圧と処分

10月31日、秋月党は解散を決定し、磯淳、宮崎車之助、土岐清ら七士が自刃した。一方、抗戦派であった今村百八郎らは秋月へ戻り、秋月小学校に置かれていた討伐本部を襲撃して県高官2名を殺害した。その後、関係者を収容していた酒屋倉庫を焼き払って逃亡したが、11月24日までに逮捕された。また、佐賀藩士族との連携を図るため佐賀へ赴いていた益田静方も、帰途に逮捕された。

同年12月3日、福岡臨時裁判所において関係者への判決が下され、首謀者とされた今村百八郎と益田静方は即日斬首に処された。さらに、約150名に対して懲役や除族などの処分が科された。

よくある質問

秋月の乱はいつ発生しましたか?
1876年(明治9年)10月27日から11月14日にかけて発生しました。
秋月の乱のきっかけは何ですか?
1876年10月24日に熊本県で発生した神風連の乱に呼応する形で引き起こされました。
秋月党の鎮圧にあたった政府軍の指揮官は誰ですか?
乃木希典が小倉鎮台を率いて秋月党の攻撃にあたりました。

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参考文献

後藤靖『士族反乱の研究』青木書店〈歴史学研究叢書〉、1967年。
原剛『明治期国土防衛史』錦正社〈錦正社史学叢書〉、2002年。