有栖川宮熾仁親王:幕末から明治維新にかけて活躍した皇族・政治家・軍人

📌 主なポイント
- ✓有栖川宮熾仁親王は江戸時代後期から明治時代にかけて活動した日本の皇族、政治家、陸軍軍人である。
- ✓明治維新の際には新政府の最高職である総裁を務め、戊辰戦争では東征大総督として軍を指揮した。
- ✓明治10年(1877年)の西南戦争では鹿児島県逆徒征討総督を務め、同年陸軍大将に任命された。
- ✓日清戦争時には参謀総長を務めたが、明治28年(1895年)に広島大本営の赴任先で病を発し、舞子の別邸で薨去した。
有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう、天保6年2月19日〈1835年3月17日〉 - 明治28年〈1895年〉1月15日)は、江戸時代後期から明治時代にかけての日本の皇族、政治家、陸軍軍人。世襲親王家の有栖川宮第9代当主であり、階級勲等功級は陸軍大将大勲位功二級。
生涯と経歴
天保6年(1835年)、有栖川宮幟仁親王の第一王子として京都で誕生した。幼名は歓宮(よしのみや)。嘉永元年(1848年)に仁孝天皇の猶子となり、翌年に親王宣下を受けた。元服以降は大宰帥に任命されたことから、幕末期の記録などでは「帥宮(そつのみや)」とも称された。
幕末期には尊王攘夷派の公卿として動向に深く関与し、安政5年(1858年)の廷臣八十八卿列参事件に関連して朝廷に意見書を提出するなど政治的な発言を行った。また、孝明天皇の妹である和宮親子内親王と一時期婚約していたことでも知られるが、公武合体政策の推進に伴い、和宮が徳川家茂へ降嫁することとなったため婚約は解消された。
元治元年(1864年)には国事御用掛に任命されて朝政に参画したが、禁門の変前後の政局の混乱の中で一会桑政権側と対立し、一時謹慎処分を受けた。明治維新の直前、慶応3年(1867年)の王政復古に伴って新政府が樹立されると、最高職である総裁に就任した。
明治維新後の軍歴と活動
戊辰戦争が勃発すると、東征大総督として新政府軍を率いて東海道を下った。その後も明治政府において兵部卿、福岡藩知事、元老院議長、左大臣などの要職を歴任した。明治10年(1877年)の西南戦争では鹿児島県逆徒征討総督を務め、同年には陸軍大将に任命された。
明治15年(1882年)にはロシア帝国のモスクワで行われたアレクサンドル3世の即位式に明治天皇の名代として出席し、欧米諸国を歴訪した。晩年は日清戦争において参謀総長として広島大本営に赴いたが、現地で病に倒れ、明治28年(1895年)1月15日に兵庫県明石郡舞子の別邸で薨去した。享年59(満61歳)。死後には国葬が営まれ、豊島岡墓地に埋葬された。
よくある質問
有栖川宮熾仁親王の幼名は何ですか?
有栖川宮熾仁親王は和宮親子内親王とどのような関係でしたか?
西南戦争における熾仁親王の役職は何ですか?
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参考文献
『コンサイス日本人名辞典 第5版』三省堂、2009年。