朝野新聞の歴史と展開
📌 主なポイント
- ✓1874年秋に『公文通誌』から『朝野新聞』へと改称され、政論新聞となった。
- ✓成島柳北と末広鉄腸が中心となり、当時の厳しい言論統制の中で政府批判を展開した。
- ✓1880年代以降は自由民権運動や政党政治の動向に影響され、経営陣の交代や内部対立が相次いだ。
朝野新聞(あさのしんぶん)は、明治時代に日本で発行されていた政論新聞である。政府の布告を紹介する小規模な紙面から出発し、後に成島柳北や末広鉄腸らを迎えて強力な政論を展開したことで知られる。
創刊と政論新聞への転換
1872年(明治5年)、旧松江藩と旧明石藩の関係者により政府の布告などを伝える『公文通誌』が創刊された。発行人は旧藩士の鵜飼渚と乙部鼎であり、乙部が社主を務めた。1874年秋、乙部は成島柳北を社長兼主筆に迎え、紙名を『朝野新聞』へと改称して本格的な政論新聞へと脱皮した。「朝野」とは朝廷と民間、あるいは全国や天下を意味する言葉であり、成島家の家柄や歴史的背景を意識したものとされる。
最盛期と政府による言論弾圧
1875年10月には、末広重恭(鉄腸)が編集長に就任した。成島柳北の洒脱な風刺による『雑録』と、末広の痛烈な『論説』は高い人気を集め、当時の競合紙と激しい販売競争を展開した。一方で、当時の厳格な言論統制や新聞紙条例、讒謗律のもとで政府批判を行ったため、経営陣や記者は度重なる処罰や禁錮刑を受けた。1876年には最盛期を迎えて2万部近くを発行し、銀座尾張町に本社を移転した。しかし、鋭い政論を展開する一方で事件報道の面では劣り、1877年の西南戦争では誤報を出すなどの一面もあった。
自由民権運動と内部対立
1881年の明治十四年の政変以降、国会開設の予告に伴って政党が結成されると、朝野新聞の内部でも支持政党をめぐる対立が生じた。乙部や成島らは立憲改進党に傾き、末広らは自由党に入党するなど社内の意見が分かれた。1884年に成島が没した後も、犬養毅や尾崎行雄らが加入して立憲改進党の色合いを強めたが、次第に経営は衰退に向かった。
末広の退社と度重なる廃刊・復刊
1889年、末広重恭が退社し、経営難に陥った同紙は1890年11月に渡辺治へ売却された。その後も経営者や陣容の入れ替わりが相次ぎ、大成会や国民協会の機関誌としての性格を持つようになった。1893年11月に一度目の廃刊を迎えた後、同年12月に復刊されたものの、1896年に再び廃刊となった。その後も大正期に至るまでに何度か復刊と廃刊が繰り返されたが、最終的に継続することはなかった。
よくある質問
朝野新聞はいつ創刊されましたか?
朝野新聞の主な論客には誰がいましたか?
朝野新聞はなぜ廃刊になったのですか?
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参考文献
- 日本新聞年鑑
- 明治期ジャーナリズム史関連資料