足尾暴動事件の歴史的背景と経過
📌 主なポイント
- ✓足尾暴動事件は1907年2月4日から2月7日にかけて発生した。
- ✓大日本労働至誠会足尾支部の南助松や永岡鶴蔵らが組織化を主導した。
- ✓事件により検挙された人数は629名、うち182名が起訴された。
- ✓裁判では南助松と永岡鶴蔵の教唆扇動についての罪は認められず無罪となった。
足尾暴動事件(あしおぼうどうじけん)は、1907年(明治40年)2月4日から2月7日にかけて、栃木県の足尾銅山において坑夫らが待遇改善などを求めて発生させた大規模な暴動事件である。足尾銅山暴動事件とも称される。
事件の背景
当時、足尾銅山では、深刻化していた足尾鉱毒事件への対応に伴う鉱毒防止費用などが経営の大きな負担となっていた。そのため、鉱山労働者の賃金は低く抑えられ、過酷な労働条件が強いられており、労働者層の間で不満が急速に高まっていた。
こうした中、1903年に夕張から赴任していた永岡鶴蔵は、夕張の大日本労働至誠会と同様の組織結成を模索した。その後、同じく夕張炭鉱から移ってきた南助松と協力し、1906年12月5日に「大日本労働至誠会足尾支部」を結成し、演説会などを通じて労働者の組織化を図った。
暴動の発生と展開
1907年2月4日午前、通洞抗内で見張り所が破壊され、ダイナマイトが投げ込まれる事件が発生した。騒ぎを聞きつけた南助松や永岡鶴蔵は現場に駆けつけ、賃上げや労働条件の改善については責任を持って会社側と交渉すると坑夫らを説得し、この日は一旦事態が沈静化した。
しかし翌2月5日には本山坑などへ騒ぎが飛び火し、同様の見張り所爆破事件が発生した。さらに2月6日朝からは鉱山事務所が襲撃され、所長の南廷三が暴行を受ける事態に発展した(南は鉱山病院に運ばれ、2週間後に業務に復帰している)。
同日午前10時過ぎ、教唆扇動の疑いで南助松と永岡鶴蔵が警察に逮捕され宇都宮へ護送されると、現場で暴動を制止する指導者が不在となり、騒動はさらに拡大した。労働者らは事務所を襲撃して食料や酒を奪い、午後には施設への放火に及んだ。
軍隊の出動と鎮圧
事態の収拾が不可能と判断した警察は、2月6日午前11時過ぎに栃木県知事に対して出兵要請を行うよう打電した。これを受けた栃木県知事の中山巳代蔵は午後1時過ぎに軍隊の出動を要請し、高崎歩兵第15連隊から3個中隊が派遣されたが、足尾への到着は翌7日午後のこととなった。
軍隊が到着した2月7日には全山で操業が停止され、目立った騒ぎは起きないまま、関係者の検挙が始まった。検挙者数は629名に及び、そのうち182名が起訴された。小滝坑口のみは暴動に参加しなかったとされている。
事件後の影響と裁判
事件による損害額は27万円と見積もられた。事件後、銅山側は全従業員をいったん解雇した上で、身元の明らかな者だけを再雇用する措置をとった。これにより大日本労働至誠会足尾支部は解体されたが、会社側も2割の賃上げ要求を呑み、施設に甚大な被害を受けたため、経営上の利益は大きくなかったとみられている。
裁判において検察側は至誠会が暴動を教唆したと主張したがその主張は認められず、南助松および永岡鶴蔵に対しては無罪判決が下された。また、後年の二村一夫の研究では、飯場頭による労働者側への挑発が事件の直接の引き金となったという説が有力視されている。事件後、栃木県警察は足尾分署を足尾警察署へと昇格させた。