日本の政治家

昭和期の革新政党を率いた政治家・飛鳥田一雄の生涯

昭和期の革新政党を率いた政治家・飛鳥田一雄の生涯
横浜市長や日本社会党委員長を歴任し、革新自治体のリーダーとして都市政策や政党改革に足跡を残した政治家・飛鳥田一雄の生涯と業績を解説します。

📌 主なポイント

  • 1915年、神奈川県横浜市に生まれました。
  • 1963年から1978年まで第18代横浜市長を4期務め、六大事業などを推進しました。
  • 1977年から1983年まで第8代日本社会党委員長を務めました。
  • 1990年10月11日、脳梗塞のため75歳で死去しました。

飛鳥田 一雄(あすかた いちを、1915年〈大正4年〉4月2日 - 1990年〈平成2年〉10月11日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員、横浜市長、日本社会党委員長を歴任しました。

生い立ちと法曹時代

神奈川県横浜市滝頭町出身。父は弁護士や検察官を務めた飛鳥田喜一です。5歳の頃に小児麻痺を患い左足が不自由となったことを機に、名の読みを「かずお」から「いちを」に改めました。旧制の中学校を経て明治大学法学部へ進学し、在学中にはマルクス主義の思想的影響を受けました。1933年の滝川事件に際して滝川擁護の演説を行い、特高警察に検挙された経歴を持ちます。1937年に明治大学を卒業後、高等文官司法科試験を経て弁護士となりました。

横浜市長としての業績

1963年の横浜市長選挙に日本社会党公認で立候補し、初当選を果たしました。以降4期15年にわたり市長を務め、全国における「革新首長」のリーダー的存在として注目を集めました。市長就任後は「みなとみらい21」を含む横浜市六大事業の策定や、脱縦割りの行政改革を推進しました。

また、ベトナム戦争期には反戦・反基地運動に関わり、1972年には米軍戦車の輸送を阻止するいわゆる「戦車闘争」において市道管理者としての権限を用いた通行制限を行うなど、独自の行政手法を展開しました。

日本社会党委員長への就任と党改革

1977年12月、参議院選挙敗北の責任を取って辞任した成田知巳の後任として、日本社会党委員長に選出されました。翌年3月に横浜市長を辞任し、国政に専念しました。

党の指導部としては、全党員による委員長公選制の導入や、イタリア共産党を参考にした「百万党建設運動」などによる党勢拡大を試みました。しかし、保革勢力の力関係や野党間の連携をめぐる複雑な政局の中で党内対立が表面化し、1983年の参議院選挙での敗北を理由に委員長および政界を引退しました。

晩年は弁護士として市民運動や公害訴訟に関わり、1990年10月11日に脳梗塞のため鎌倉市内の病院で死去しました。

よくある質問

飛鳥田一雄の主な役職は何ですか?
衆議院議員、横浜市長、日本社会党委員長などを歴任しました。
横浜市長時代にどのような事業を進めましたか?
みなとみらい21などの都市基盤整備を含む「横浜市六大事業」の策定や、脱縦割り行政の推進を行いました。
日本社会党委員長にはいつ就任しましたか?
1977年12月に就任しました。

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参考文献

『現代政治家人名事典』、明治大学史資料センター『明治大学小史—人物編』、飛鳥田一雄『生々流転 飛鳥田一雄回顧録』朝日新聞出版ほか