アウグスト・ヴィルヘルム・ユリウス・リーツ:19世紀ドイツの指揮者・作曲家

📌 主なポイント
- ✓1812年にベルリンで生まれ、1877年にドレスデンで没した。
- ✓メンデルスゾーンの伝統を継承し、新ドイツ楽派に反対する立場をとった。
- ✓ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者やライプツィヒ音楽院の教員を歴任した。
- ✓バッハ協会の事務局長を務め、バッハ作品の校訂に貢献した。
アウグスト・ヴィルヘルム・ユリウス・リーツ(August Wilhelm Julius Rietz, 1812年12月28日 - 1877年9月12日)は、19世紀ドイツの指揮者、チェリスト、作曲家、そして教育者です。ベルリンで生まれ、ドレスデンで没しました。
生涯と経歴
リーツは、プロイセン王立宮廷楽団のヴァイオリニストであったヨハン・フリードリヒ・リーツの息子として生まれました。兄のエドゥアルト・リーツもヴァイオリニスト・指揮者であり、フェリックス・メンデルスゾーンと親交があったことで知られています。リーツ自身もチェロを学び、16歳でプロイセン王立劇場管弦楽団の団員となりました。
1834年、メンデルスゾーンの紹介によりデュッセルドルフ劇場の次席指揮者に就任し、翌1835年にはメンデルスゾーンの後任として首席指揮者、1836年には音楽監督へと昇進しました。その後、1847年から1854年までライプツィヒ劇場の楽長およびライプツィヒ・ジングアカデミーの指揮者を務め、1848年にはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者およびライプツィヒ音楽院の教員に就任しました。

音楽的業績と教育
リーツは作曲家として、メンデルスゾーンの伝統を継承する立場にあり、当時の新ドイツ楽派とは一線を画していました。また、学術的な貢献も大きく、バッハ協会の事務局長(1855年-1860年)を務めたほか、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの『マタイ受難曲』や『ミサ曲 ロ短調』の校訂を行いました。1874年からはブライトコプフ・ウント・ヘルテル社の『メンデルスゾーン全集』の監修者として、メンデルスゾーン作品の校訂に尽力しました。
教育者としては、ヴォルデマール・バルギールやザロモン・ヤーダスゾーン、アーサー・サリヴァンらを指導し、後進の育成にも大きな影響を与えました。1860年にはドレスデンの宮廷楽長に招聘され、1870年にはドレスデン王立音楽院の芸術監督、1874年にはザクセン王国の音楽総監督に任命されました。
主な作品
- 交響曲第1番 ト短調 作品13(1843年)
- 交響曲第2番 イ長調 作品23(1846年)
- 交響曲第3番 変ホ長調 作品31(1854/1855年)
- クラリネット協奏曲 ト短調 作品29
- オーボエ小協奏曲 ヘ短調 作品33
- 歌劇『海賊』(1850年)
よくある質問
ユリウス・リーツの主な職業は何ですか?
メンデルスゾーンとの関係はどのようなものでしたか?
リーツが校訂に関わった音楽家は誰ですか?
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参考文献
- Dwight, John Sullivan (1877). "Dr. Julius Rietz." Dwight's Journal of Music, 37(15), 113.
- Mell, Albert and Wiegandt, Matthias. "Rietz, Julius." Grove Music Online. Oxford University Press.
- Fürstenau, Moritz (1889). "Rietz, Julius." Allgemeine Deutsche Biographie, Band 28, 603-606.