アウグスト・ピノチェトの生涯と軍事政権時代

📌 主なポイント
- ✓アウグスト・ピノチェトは1973年9月11日のクーデターでアジェンデ政権を打倒し、実権を掌握した。
- ✓1974年から1990年までチリの大統領として軍事独裁政権を率いた。
- ✓シカゴ・ボーイズを登用して新自由主義経済政策を推進し、「チリの奇跡」と呼ばれる経済改革を行った。
- ✓1988年の国民投票で敗北し、1990年3月に大統領を辞任した。
- ✓退任後の1998年にイギリスで拘束されるなど、人権侵害を巡る法的追及を受けた。
アウグスト・ホセ・ラモン・ピノチェト・ウガルテ(Augusto José Ramón Pinochet Ugarte、1915年11月25日 - 2006年12月10日)は、チリの政治家、軍人。第30代チリ共和国大統領(在任:1974年 - 1990年)。1973年9月11日のチリ・クーデターによって政権を掌握し、長期にわたり強権的な軍事独裁体制を敷いた。
生涯と軍歴
1915年11月25日、チリ第二の都市バルパライソにバスク系フランス人の家系として生まれた。チリ陸軍士官学校を卒業後、1937年にチリ陸軍へ入営した。軍内で着実に出世を重ね、1971年1月に陸軍中将となり、1973年8月23日にはカルロス・プラッツの後任として陸軍総司令官に就任した。
大統領時代と軍事政権
1973年9月11日、サルバドール・アジェンデ政権に対するクーデターを指導してこれを転覆させ、翌12日に軍事評議会の議長となった。1974年6月27日に大統領に就任し、1990年3月まで約16年間にわたって権力を維持した。
政権下では議会制民主主義が否定され、左派勢力や反体制派に対する大規模な弾圧が行われた。公式報告書や国際的な推計によれば、政治的理由による死者や行方不明者は多数に上り、国民に対する人権侵害や拷問が広く行われたとされる。また、国内外の反体制派の暗殺や、南米諸国の軍事政権による情報協力を目的とした「コンドル作戦」の主導にも関与した。
経済政策と「チリの奇跡」
経済面では、ミルトン・フリードマンらの影響を受けた「シカゴ・ボーイズ」と呼ばれる経済学者を登用し、徹底した新自由主義政策を導入した。国家管理型経済からの転換や積極的な民営化が進められ、短期的には高い経済成長を記録したことから「チリの奇跡」とも称された。
一方で、この改革は急激な貧富の差の拡大や失業率の上昇を招き、1975年や1982年には深刻な経済危機に直面した。また、実質GDPの平均成長率は必ずしも過去の輸入代替工業化期を大きく上回るものではなく、社会的なひずみも大きかった。
退陣と晩年
1988年10月に行われた任期延長を問う国民投票で反対多数となったことを受け、1989年12月の大統領選挙を経て、1990年3月に大統領を辞任した。退任後も陸軍総司令官や終身上院議員として強い影響力を維持したが、1998年に訪問先のイギリスで人権侵害の罪によりスペイン当局の要請で身柄を拘束された。その後、健康上の理由からチリへの帰国が認められ、国内外で法的な追訴や捜査が進められたものの、裁判が結審する前の2006年12月10日にサンティアゴで死去した。
よくある質問
アウグスト・ピノチェトはどのようにして政権を掌握しましたか?
ピノチェト政権下の経済政策はどのようなものですか?
ピノチェト政権はどのように終了しましたか?
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参考文献
- 中川文雄、松下洋、遅野井茂雄 『ラテン・アメリカ現代史II』 山川出版社、1985年。
- 後藤政子 『新版世界各国史 26. ラテン・アメリカ史II』 山川出版社、1993年。
- 岡本元 『チリ現代史』 明石書店、2005年。