日本の歴史
備中国の歴史と概要

備中国は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つです。現在の岡山県西部に位置し、古代から交通と産業の要衝として発展しました。その歴史、領域、主要施設について解説します。
📌 主なポイント
- ✓備中国は山陽道に属する令制国で、現在の岡山県西部に位置する。
- ✓7世紀後半に吉備国が備前・備中・備後に三分されたことで成立した。
- ✓江戸時代には備中松山藩や倉敷代官所などが置かれ、綿作や製鉄が盛んに行われた。
備中国(びっちゅうのくに)は、かつて日本に存在した令制国の一つです。山陽道に属し、現在の岡山県西部に相当する領域を占めていました。古代には「吉備道中国(きびのみちのなかつくに)」とも呼ばれ、吉備国を分割して成立した歴史を持ちます。
歴史
7世紀後半、吉備国は備前国、備中国、備後国の三つに分割されました。この地域は古代から開発が進んだ先進地帯であり、鉄の産地としても知られていました。造山古墳や作山古墳の存在から、当時この地域が吉備の有力豪族の拠点であったことが推定されます。また、瀬戸内海に面した交通の要衝として、天智天皇の時代には鬼ノ城が築かれました。
律令制下では「上国」に分類され、都宇、窪屋、浅口、小田、後月、下道、賀夜、英賀、哲多の9郡が置かれました。鎌倉時代以降、賀陽郡や下道郡の一部が割譲され、最終的に11郡となりました。
中世から近世
室町時代には細川氏が守護を務めましたが、国人衆の独立性が強く、戦国時代には尼子氏や大内氏、毛利氏といった周辺勢力の係争地となりました。1575年の「備中兵乱」を経て毛利氏の支配下に入りましたが、後に羽柴秀吉による中国攻めの舞台となりました。
江戸時代に入ると、備中国は複数の知行地に分割されました。備中松山藩を中心に、成羽藩、岡田藩、足守藩、庭瀬藩、浅尾藩などの小藩が並立し、幕府直轄地(天領)も存在しました。倉敷は代官所が置かれた幕府直轄地として発展し、江戸時代後期には備中最大の都市へと成長しました。
主要施設
備中国府は現在の総社市付近にあったと推定されています。また、総社市には備中国分寺跡および備中国分尼寺跡が残されており、古代の地方統治の中心地であったことを示しています。一宮は吉備津神社(岡山市)とされています。
よくある質問
備中国は現在のどの地域にあたりますか?
現在の岡山県西部(井原市、総社市、高梁市、新見市、浅口市など)および岡山市・倉敷市の一部にあたります。
備中国の「備州」という別称は何を指しますか?
備州は、備前国・備中国・備後国の三国の総称として用いられる呼称です。
備中国の国府はどこにありましたか?
現在の総社市金井戸付近に推定されていますが、具体的な所在地は不詳です。
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吉備国備前国備後国備中松山藩倉敷市
参考文献
田中修實 『中世後期受領名官途の在地効果 備中守の事例を中心に』1989年。岡山県神社庁公式サイト。井原市観光協会公式サイト。