第三インターナショナルと国際共産主義運動の歴史

📌 主なポイント
- ✓コミンテルンは1919年3月にウラジーミル・レーニンの呼びかけによりモスクワで設立された国際的な共産主義指導組織である。
- ✓前身である第二インターナショナルは、第一次世界大戦における各国の「祖国防衛」支持によって瓦解した。
- ✓1935年の第7回大会において、反ファシズムを最優先課題とする「人民戦線戦術」が採択された。
- ✓第二次世界大戦中の1943年5月に解散した。
コミンテルン(ロシア語: Коминтерн、英語: Comintern)は、正式名称を共産主義インターナショナル(ロシア語: Коммунистический Интернационал)と称し、1919年から1943年まで存在した国際的な共産主義政党の指導組織である。
一般には「第三インターナショナル」や「国際共産党」とも呼ばれ、第一次世界大戦の勃発に伴って崩壊した第二インターナショナルの後継として、ロシア革命を指導したウラジーミル・レーニンらの呼びかけにより設立された。
設立の背景と起源
19世紀後半に結成された第二インターナショナルは、帝国主義戦争への反対を掲げていたが、1914年の第一次世界大戦勃発に際して加盟各国の社会民主主義政党が相次いで自国政府の戦争遂行や軍事公債を支持したため、組織としての統一を失い事実上瓦解した。
この事態に反対した反戦派は、1915年にスイスのツィンメルワルトで国際会議(ツィンメルワルト会議)を開催し、国際主義の立て直しを図った。この会議に参加したボリシェヴィキなどの革命派左派が、のちのコミンテルンの源流となった。
レーニン時代と組織の形成
十月革命の成功を経て、ロシア共産党(ボリシェヴィキ)のウラジーミル・レーニンは、世界革命を推進するための新たな国際組織の設立を主導した。1919年3月にモスクワで第一回大会が開催され、コミンテルンが正式に発足した。
初期のコミンテルンは、ヨーロッパを中心とした革命運動の支援に注力し、ドイツなどでの武装蜂起の側面支援を行った。また、改良主義的な社会民主主義勢力と一線を画すため、1920年の第二回大会では「21ヶ条の加入条件」を採択し、加盟政党に対して厳格な規律や党名の変更、日和見主義者の排除を義務付けた。
スターリン体制と方針の転換
レーニンの死後、ヨシフ・スターリンが提唱した「一国社会主義論」がソビエト連邦の国家方針となるにつれて、コミンテルンの性格にも変化が生じた。各国の共産党は、ソビエト連邦の外交政策や防衛戦略を擁護する役割を強めていった。
また、1928年の第6回大会では、社会民主主義をファシズムの変種とみなす「社会ファシズム論」が打ち出され、中道左派勢力との深刻な対立が生じた。この方針は、ドイツにおけるナチ党の台頭期において反ファシズム勢力の結集を妨げる一因となったと指摘されている。
人民戦線戦術と解散
1935年の第7回大会では、ファシズムの脅威に対抗するため、社会民主主義者を含む多様な政治勢力との共闘を目指す「人民戦線戦術」へと方針が大きく転換された。フランスやスペインなどで人民戦線政府が樹立されたが、スペイン内戦やその後の国際情勢の変化により、その影響力は限定的なものとなった。
第二次世界大戦が勃発し、独ソ戦の開始によってソビエト連邦がイギリスやアメリカなどの連合国側と共闘するなかで、国際共産主義運動の調整機関としての存在意義は薄れ、1943年5月に公式に解散が発表された。