クレイジー・ホース:ラコタ族の戦士

📌 主なポイント
- ✓ラコタ・スー族のオグララ・バンドに属する戦士であり、酋長ではない。
- ✓1876年のリトルビッグホーンの戦いにおいて、アメリカ軍に対する抵抗を主導した。
- ✓1877年9月5日、ロビンソン砦にて拘束中に刺殺された。
- ✓生涯を通じて写真を残さなかったとされ、現存する肖像写真は本人ではない可能性が高い。
クレイジー・ホース(英語: Crazy Horse、ラコタ語名:タシュンケ・ウィトコ、1840年頃 - 1877年9月5日)は、北米の先住民であるラコタ・スー族のオグララ・バンドに属する戦士です。白人の入植拡大に対し、部族の伝統と土地を守るために戦った指導者の一人として知られています。
生涯と背景
クレイジー・ホースは、現在のサウスダコタ州付近で生まれました。彼の名はラコタ語で「彼の奇妙な馬」を意味します。幼少期から部族の慣習に従い、戦士としての訓練を受けました。彼は部族内において、特定の役職(酋長など)に就くことを求めず、あくまで個人の戦士として行動しました。白人との対立が激化する中、彼は妥協を拒む主戦派の象徴的な存在となりました。
戦歴
クレイジー・ホースは、1876年のローズバッドの戦いや、同年6月のリトルビッグホーンの戦いにおいて重要な役割を果たしました。特にリトルビッグホーンの戦いでは、ジョージ・アームストロング・カスター中佐率いるアメリカ陸軍部隊を壊滅させた戦いの一つとして歴史に名を残しています。
最期
1877年5月、クレイジー・ホースは900人の仲間と共にアメリカ政府へ投降し、ネブラスカ州のロビンソン砦に入りました。しかし、白人側との緊張関係は解消されず、同年9月5日、砦内での拘束中に銃剣で刺され、36歳で死去しました。彼の死後、その遺体は親族によって埋葬されましたが、正確な場所は現在も公開されていません。
肖像と記念碑
クレイジー・ホースは生涯を通じて写真を撮られることを拒んだとされており、彼を写したとされる写真は複数存在しますが、その真贋については専門家の間で否定的な見解が一般的です。また、サウスダコタ州には彼の姿を模した巨大なクレイジー・ホース記念碑の建設が進められていますが、部族の伝統派からは、彼の肖像を残さないという意志に反するとして批判的な意見も存在します。
よくある質問
クレイジー・ホースは酋長でしたか?
クレイジー・ホースの写真は存在しますか?
彼はなぜ亡くなったのですか?
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参考文献
- Lame Deer, Seeker of Visions (リチャード・アードス共著)
- ラリー・マクマートリー著『クレイジー・ホース』