日本史
大同団結運動の歴史と展開
明治中期の自由民権運動の一環として展開された大同団結運動の経緯、分裂、そして立憲自由党結党に至るまでの過程を解説します。
📌 主なポイント
- ✓大同団結運動は、1886年から1891年頃にかけて展開された自由民権運動の一局面である。
- ✓1889年5月、運動は政社系の大同倶楽部と非政社系の大同協和会に分裂した。
- ✓1890年9月、立憲自由党が結党され、大同団結運動は一つの結末を迎えた。
大同団結運動(だいどうだんけつうんどう)は、明治中期の日本において、帝国議会の開設を目前に控え、自由民権運動の諸派を再結集させようとした政治運動である。1886年(明治19年)から1891年頃にかけて展開された。
背景と三大事件建白運動
1884年(明治17年)の自由党解散後、自由民権運動は停滞期を迎えていた。1886年10月、獄中から出所した星亨らを中心に、旧自由党員の再結集が模索された。1887年7月、政府の条約改正交渉に対する反対運動が高まると、星らはこれを契機に「外交策の刷新」「地租軽減」「言論集会の自由」を掲げた運動を企図した。これが三大事件建白運動である。後藤象二郎を首魁に担ぎ、政府への建白を試みたが、同年12月の保安条例発布により運動は中断を余儀なくされた。
運動の分裂と対立
1889年(明治22年)の大日本帝国憲法発布に伴う大赦により、政治犯の復権が進むと、翌年の総選挙に向けた活動が活発化した。しかし、運動内部では路線対立が表面化した。河野広中を中心とする「政社系」は新党結成を目指したのに対し、大井憲太郎を中心とする「非政社系」は自由党の再興を主張した。さらに後藤象二郎の入閣問題も重なり、1889年5月、運動は「大同協和会」(非政社系)と「大同倶楽部」(政社系)に分裂した。
立憲自由党の結党
分裂後、板垣退助が運動の再統一を呼びかけたものの、両派の溝は深く、1889年12月の大阪での会合でも合意には至らなかった。しかし、1890年(明治23年)に入ると、帝国議会開設を見据えて再び合同の機運が高まった。同年6月には三派による「庚寅倶楽部」が結成され、同年7月の第1回衆議院議員総選挙を経て、9月15日には立憲自由党が結党された。これにより、大同団結運動は一定の結実を見た。
よくある質問
大同団結運動の主な目的は何でしたか?
帝国議会の開設に備え、分裂していた自由民権運動の各派を統一し、強力な政党を組織することを目指しました。
なぜ運動は分裂したのですか?
新党結成を主張する政社系(河野広中ら)と、自由党の再興を主張する非政社系(大井憲太郎ら)の間で路線対立が生じたためです。
立憲自由党はいつ結党されましたか?
1890年(明治23年)9月15日に結党式が行われました。
関連記事
自由民権運動板垣退助星亨後藤象二郎立憲自由党
参考文献
升味準之輔『新装版 日本政党史論 2』東京大学出版会、2011年。