明治時代の太政官:組織の変遷と近代日本政府の成立

📌 主なポイント
- ✓太政官は慶応4年閏4月21日(1868年6月11日)に公布された政体書に基づいて成立した。
- ✓明治2年7月8日(1869年8月15日)の改革により、神祇官と二官六省制を軸とする体制へ移行した。
- ✓明治18年(1885年)12月22日の内閣制度樹立に伴い廃止された。
太政官(だじょうかん)は、慶応4年閏4月21日(1868年6月11日)に公布された政体書に基づく官制改革によって成立した明治初期の最高行政機関である。律令制の官職名を踏襲しつつも、時代ごとの政治情勢や権力構造の変化に応じて幾度もの大改革が行われ、明治18年(1885年)12月22日の内閣制度樹立に伴い廃止された。
三職の設置と初期の組織
慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古の大号令により、朝廷は摂関・幕府の廃絶と太政官の漸次再興を宣言した。これにより、幕府や征夷大将軍、摂政・関白に代わるものとして、総裁・議定・参与の「三職」が置かれた。
戊辰戦争の開始に伴い、総裁を補佐する副総裁が置かれ、三条実美や岩倉具視らが任命された。慶応4年1月17日には三職の職制が定められ、神祇・内国・外国・海陸軍・会計・刑法・制度の7事務科(後に事務局)が設置された。
政体書による体制
慶応4年閏4月21日(1868年6月11日)、副島種臣や福岡孝弟の起草による基本法「政体書」が太政官の名で布告された。五箇条の御誓文に基づく政体を掲げ、権力分立や官吏公選、府藩県三治制などが規定された。
この体制下では、立法権を司る議政官(上局・下局)、行政権を司る五官(行政・神祇・会計・軍務・外国)などが置かれた。しかし、実際には行政官が他の官を監督する構造となっており、権力分立は形骸化していた。
明治2年の官制改革と二官六省制
明治2年7月8日(1869年8月15日)、アメリカの影響を受けた政体書体制を廃し、祭政一致を原則とした復古的な官制が導入された。神祇官が太政官よりも上位に置かれ、その下に民部省・大蔵省・兵部省・刑部省・宮内省・外務省を置く「二官六省制」が採られた。
太政官には左右両大臣、大納言、参議からなる三職が置かれ、指揮を執った。この時期には民部省と大蔵省の合併・分離問題がたびたび発生し、中央集権化や殖産興業政策を巡る官僚間の対立と調整が行われた。
廃藩置県後の近代官制と内閣制度への移行
明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県を経て、政府は正院・左院・右院を設置し、中央集権的な行政組織を急速に整えた。明治8年(1875年)の大阪会議を経て、立憲政体の詔書が発せられ、行政の太政官・正院、立法のエレメントである元老院、司法の大審院による三権分立制の基礎が形成された。
その後、大久保利通や伊藤博文らを中心とした官僚機構の整備が進み、明治18年(1885年)12月22日の内閣制度の樹立によって、太政官制はその歴史的役割を終えて廃止された。
よくある質問
明治時代の太政官とはどのような組織ですか?
太政官はいつ廃止されましたか?
政体書とは何ですか?
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参考文献
内閣制度百年史編纂委員会 『内閣制度百年史 上巻』 大蔵省印刷局、1985年。