日本の歴史
大覚寺統:鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇統
鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位を巡り持明院統と対立した大覚寺統の歴史、系統、天皇一覧について解説する百科事典記事。
📌 主なポイント
- ✓大覚寺統は、第90代亀山天皇を祖とする鎌倉時代後期から南北朝時代の皇室の系統である。
- ✓持明院統との間で皇位を交互に継承する「両統迭立」と呼ばれる体制が鎌倉幕府の仲介で成立した。
- ✓南北朝時代には南朝の基盤となり、1392年の明徳の和約により南北朝が合一した。
大覚寺統(だいかくじとう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた皇室の系統である。後深草天皇の系統である持明院統と皇位をめぐって対立関係にあった。
名称の由来
名称の由来は、第88代後嵯峨天皇の皇子であり第89代後深草天皇の実弟にあたる第90代亀山天皇の子、後宇多天皇が京都の嵯峨野(京都市右京区)にある大覚寺の再興に尽力し、出家後には同寺に住して院政を行ったことに関連している。
歴史的展開
両統迭立の成立
正嘉2年(1258年)、後嵯峨上皇は後深草天皇の同母弟である恒仁親王(後の亀山天皇)を皇太子とし、翌正元元年(1259年)には譲位させた。その後、文永5年(1268年)には亀山天皇の第2皇子である世仁親王(後の後宇多天皇)が皇太子に指名された。
文永9年(1272年)に後嵯峨上皇が崩御した際、明確な後継者指名の遺言がなかったため、後深草上皇と亀山天皇の間で治天の位を巡る争いが生じた。鎌倉幕府の裁定により亀山天皇が次の治天に指名されたが、後に幕府の政治的配慮から両者の子孫が交互に皇位を継承する「両統迭立」の体制が確立された。
南北朝時代と分裂
後二条天皇の崩御後、後宇多上皇の意向により後醍醐天皇が即位したが、後醍醐天皇は自身の皇子への皇位継承を企図した。これが大覚寺統内の対立や鎌倉幕府との抗争を招いた。元弘3年(1333年)の鎌倉幕府滅亡後、建武の新政を経て、大覚寺統は吉野へ逃れて南朝を形成し、足利尊氏に擁立された持明院統の北朝と対立する南北朝時代に突入した。
明徳3年(1392年)の明徳の和約により、大覚寺統の後亀山天皇が三種の神器を持明院統の後小松天皇に引き渡し、南北朝の合一が成し遂げられた。しかし、その後の皇位は持明院統のみによって継承されたため、大覚寺統(南朝)の遺臣による抵抗運動(後南朝)が15世紀半ばまで続いた。
大覚寺統の天皇
- 亀山天皇(第90代)
- 後宇多天皇(第91代)
- 後二条天皇(第94代)
- 後醍醐天皇(第96代、南朝初代)
- 後村上天皇(第97代、南朝第2代)
- 長慶天皇(第98代、南朝第3代)
- 後亀山天皇(第99代、南朝第4代)
よくある質問
大覚寺統の由来は何ですか?
後宇多天皇が京都の嵯峨野にある大覚寺の再興に尽力し、出家後に同寺に住して院政を行ったことに由来しています。
持明院統との対立はどのように解消されましたか?
1392年の明徳の和約により、大覚寺統の後亀山天皇が三種の神器を持明院統の後小松天皇に引き渡すことで、南北朝の合一が実現しました。
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参考文献
森茂暁『南朝全史 大覚寺統から後南朝へ』講談社選書メチエ、2004年。