明治初期における大区小区制の歴史と展開

📌 主なポイント
- ✓大区小区制は、明治5年(1872年)10月に本格的に導入された日本の地方行政制度である。
- ✓府県の下に大区、その下部に小区を置き、それぞれ区長や戸長などの役人が配置された。
- ✓明治11年(1878年)に制定された郡区町村編制法により廃止された。
大区小区制(だいくしょうくせい)とは、日本の明治時代初期に施行された地方行政制度である。従来の小規模な町村単位では効率的な行政や全国一律の戸籍編制を実施することが困難であったため、府県の下に大区を置き、その下部に小区を設置して行政区域を再編成した。
法令上の沿革
明治政府は全国一律の戸籍を作成するための準備として、明治4年4月4日(1871年5月22日)に戸籍法を制定し、編製の単位として「区」を置いた。
明治5年4月9日(1872年6月10日)、政府は江戸時代からの庄屋、名主、年寄、大庄屋といった旧来の役職を廃止し、代わりに華族や士族も含めて全国一律に戸長および副戸長を置いた。さらに同年10月10日(1872年11月10日)には、この区を「大区」と改称し、その下部に旧来の町村を複数まとめて「小区」を置く制度へと発展させた。大区には区長および副区長が置かれ、小区には戸長および副戸長が置かれた。区の名称には数字が用いられ、例えば東京府においては6つの大区と97の小区が設置された。

各県での施行状況
大区小区制の施行状況は府県によって様々であった。単一区制を取ってから大区小区制に切り替えた県が多い一方で、当初から大区小区制を採用した県、中途で単一区制に転換した県、一貫して単一区制を採った県など多岐にわたる。また、形式上は大区小区制を採っていても、大区や小区に役人が置かれず有名無実化した地域も存在した。
新政府には「人目一新、旧弊除去」の意図があったとされるが、実際には旧来の郡を無視して区画した県や、郡を基礎として区分した県、さらには旧来の支配構造をほぼ温存した県などが見られた。
廃止と影響
大区小区制が直接の目的とした戸籍編製は壬申戸籍に結実したものの、旧来の町村における自治的な機能を否定し、中央の命令伝達機関としての側面が強かったことから、地方の実情に合わず不評を買うことになった。
この制度に対する反省や、高まりを見せた自由民権運動の影響により地方政治への住民参加の必要性が生じたため、明治11年(1878年)7月22日に制定された郡区町村編制法によって廃止され、新たな地方制度へと移行した。
よくある質問
大区小区制はなぜ導入されたのですか?
大区小区制はどのように廃止されましたか?
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参考文献
『法令全書』明治4年、内閣官報局、1887年(太政官布告第170号)。
『法令全書』明治5年、内閣官報局、1887年(太政官布告第117号)。
『法令全書』明治5年、内閣官報局、1887年(大蔵省達第146号)。
『法令全書』明治11年、内閣官報局、1887年(太政官布告第17号)。
井戸庄三「明治初期の大区小区制の地域性について」『歴史地理学』第123巻、1983年。
井戸庄三「明治初期の単一区制、大区小区制について」『滋賀医科大学基礎学研究』第10巻、1999年。