日本の歴史
大納言(律令制および明治初期の官職)

日本の律令制度における官職「大納言」の歴史と役割、および明治初期の太政官制における変遷について解説します。
📌 主なポイント
- ✓大納言は律令制において太政官の次官に相当し、政務の参議や天皇の詔勅伝達を担った。
- ✓古代の定員は当初4名であったが、慶雲2年(705年)に2名へ減員された。
- ✓明治政府は1869年に大納言を再設置したが、1871年の官制改革により廃止された。
大納言(だいなごん)は、日本の律令制度において太政官に置かれた官職の一つです。太政官の四等官における次官(すけ)に相当し、大臣を補佐して政務を議し、天皇の詔勅を伝達する役割を担いました。唐名では「亜相」や「亜槐」とも呼ばれました。
古代律令制下の大納言
養老律令の職員令では、大納言の職掌を「庶事を参議し、敷奏・宣旨・侍従・献替を掌る」と定めています。大臣が欠員や休暇の際にはその代行を務めるなど、君主と臣下の間を取り持つ「喉舌の官」として重要な地位にありました。官位相当は三品・四品または正三位とされました。
定員は当初4名でしたが、慶雲2年(705年)に2名に減員され、その補完として中納言が設置されました。その後、摂関政治期には摂関家の公達が任じられることが多くなり、院政期には院近臣の極官として定着しました。南北朝時代以降は正官の任命が稀となり、権大納言が置かれることが一般的となりました。

明治政府における大納言
明治維新後の1869年(明治2年)8月15日、官位改正に伴い太政官の重職として大納言が改めて設置されました。この時の大納言は、左右大臣や参議とともに政府の中枢を担う職であり、岩倉具視や徳大寺実則らが就任しました。
しかし、1871年(明治4年)7月14日の廃藩置県に伴い、岩倉具視が外務卿へ転任し、他の在任者も免官となったことで空席となりました。同年9月13日、太政官制の改組(三院八省への移行)に伴い、大納言の官職は廃止されました。その後、正院に「納言」が置かれましたが、わずか11日後の同年9月24日には廃止され、以降、同名の官職が復活することはありませんでした。
よくある質問
大納言の主な役割は何ですか?
大臣を補佐して政務を議し、天皇の言葉を臣下に伝え、臣下の意見を天皇に奏上する「喉舌の官」としての役割を担いました。
明治政府における大納言はいつ廃止されましたか?
1871年(明治4年)9月13日の太政官制改組に伴い廃止されました。
大納言の唐名は何ですか?
「亜相」または「亜槐」と呼ばれました。
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参考文献
- 内閣官報局「【第622】職員令並官位相当表 明治2年7月8日」『法令全書』明治2年、1887年。
- 内閣官報局「【太政官第385】太政官職制ヲ定ム 明治4年7月29日」『法令全書』明治4年、1888年。
- 国立公文書館「正院|アジ歴グロッサリー」アジア歴史資料センター、2019年。