歴史書

大日本史の歴史的意義と編纂過程

大日本史の歴史的意義と編纂過程
江戸時代に水戸藩主・徳川光圀が着手し、明治時代に完成した日本の歴史書『大日本史』の編纂過程、構成、特色について解説します。

📌 主なポイント

  • 『大日本史』は、江戸時代初期の1645年に徳川光圀が学問を志したことに端を発する歴史書である。
  • 編纂事業は水戸藩によって引き継がれ、1906年に徳川圀順の代で完成した。
  • 神武天皇から南北朝が統一された1392年までの期間を対象としている。
  • 全体の構成は本紀、列伝、志・表からなり、紀伝体の形式で記述されている。
  • 南朝を正統とする立場をとるなど、のちの水戸学や幕末の思想に多大な影響を与えた。

大日本史』(だいにほんし)は、江戸時代から明治時代にかけて編纂された日本の歴史書である。水戸徳川家の当主である徳川光圀によって計画・開始され、光圀の死後も水戸藩の事業として長期間にわたり継続され、明治時代に完成を迎えた。

編纂の経緯

青年時代の徳川光圀は、1645年(正保2年)に中国の歴史書である『史記』の「伯夷伝」を読んで感銘を受け、学問に励んで歴史書の編纂を志したと伝えられている。1657年(明暦3年)には小石川藩邸に史局を設け、本格的な編纂事業が開始された。当時、日本の史書は編年体で記述されるのが主流であったが、『大日本史』では中国の『史記』などに倣った紀伝体が採用された。

その後、光圀は父・徳川頼房の死去に伴う家督相続などにより一時的に事業から離れたものの、1672年に駒込別邸の史館を小石川本邸へ移転し、名称を「彰考館」と改めて事業を再組織化した。この過程で明朝からの亡命 intelectual である朱舜水を招聘し、歴史における正統性の解釈などの影響を受けた。また、北畠親房の『神皇正統記』の影響も受けたとされている。

光圀の隠棲後も事業は継続され、安積澹泊らの指導のもとで原稿の精選が進められた。江戸時代後期には立原翠軒や藤田幽谷らが校訂作業にあたり、明治時代に入ってからは水戸徳川家の事業として栗田寛らを中心に「志」や「表」の編纂が進められた。計画の開始から完成に至るまでには約260年の歳月が費やされ、1906年(明治39年)に徳川圀順の手によって全巻が完結した。

構成と特色

大日本史』は紀伝体の形式を採用しており、神武天皇から後小松天皇の治世(南北朝が統一された1392年まで)を対象としている。全体の構成は以下の要素から成り立っている。

  • 本紀:帝王の治世を記録した部分(73巻)
  • 列伝:后妃、皇子、皇女、群臣などを配列した部分(170巻)
  • 志・表:制度や歴史的変遷などをまとめた部分(154巻)

総巻数は目録を含めて397巻に及ぶ。内容上の主な特色としては、神功皇后を皇后伝に、大友皇子を帝紀にそれぞれ位置づけたこと、そして南北朝時代において南朝を正統とする「南朝正統論」を明確に唱えた点が挙げられる。こうした尊皇論を基調とする歴史観は、のちに水戸学として発展し、幕末の思想界に大きな影響を与えた。

評価

近代以降の歴史学においては、実証的な観点から批判的な評価を受けることもあった。例えば、歴史学者の久米邦武は、その記述や構成について劇本(戯曲)に例えて否定的な見解を示している。一方で、哲学者の西田幾多郎は、明治から大正期にかけて思想的な価値を持つ数少ない著述であるとして、『大日本史』を高く評価するなど、捉え方には多様な側面が存在する。

よくある質問

『大日本史』は誰によって始められたのですか?
水戸徳川家の当主である徳川光圀によって計画され、開始されました。
『大日本史』の完成にはどのくらいの歳月がかかりましたか?
光圀が学を志した1645年から、1906年に完結するまで約260年の歳月を要しました。
『大日本史』はどのような形式で書かれていますか?
中国の歴史書に見られる「紀伝体」の形式を採用しており、本紀、列伝、志・表で構成されています。

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参考文献

  • 水戸学派 『大思想エンサイクロペヂア』28巻 (春秋社, 1930) p187
  • 久米邦武 『大日本時代史 第六巻 南北朝時代史』 早稲田大学出版部, 1927年1月9日
  • 橋川文三 「水戸学の源流と成立」『橋川文三著作集』10巻, 筑摩書房, 2001年7月25日