デイヴィッド・カラカウア:ハワイ王国第7代国王の生涯と文化興隆

📌 主なポイント
- ✓デイヴィッド・カラカウアはハワイ王国の第7代国王であり、在位期間は1874年から1891年である。
- ✓史上初めて日本を公式に訪問した外国の国家元首である。
- ✓キリスト教宣教師によって禁止されていた伝統的なフラを復活させた。
- ✓1887年にいわゆる銃剣憲法を受け入れ、王権が大幅に制限された。
デイヴィッド・カラカウア(ハワイ語: David Kalākaua、1836年11月16日 - 1891年1月20日)は、ハワイ王国の第7代国王である。正式名は David La‘amea Kamanakapu‘u Mahinulani Nalaiaehuokalani Lumialani Kalākaua。1874年2月12日からサンフランシスコで逝去するまで国王の座にあり、史上初めて日本を訪れた外国の国家元首としても知られている。

即位と政治的背景
カメハメハ5世が後継者を指名せずに死去した後、1872年の国王選挙ではルナリロが選出された。しかしルナリロも1874年2月に後継者を残さず急逝したため、翌日に行われた選挙でカラカウアがエマ王妃を破り、第7代国王に選出された。選挙結果を巡ってはエマの支持者による暴動が発生したが、アメリカおよびイギリス海軍の支援を受けてこれを鎮圧した。

外国歴訪と日本訪問
1881年、カラカウアは移民問題の解決や外交関係の改善を目的として世界一周の旅に出発した。サンフランシスコを経て日本を訪問し、明治天皇と会見を行った。日本滞在中には移民の受け入れ要請や、カイウラニ王女と山階宮定磨王との政略結婚を打診した(結婚の提案は日本側に辞退された)。その後もアジア、中東、ヨーロッパ諸国を歴訪し、ローマ教皇レオ13世やイギリス女王ヴィクトリア女王らとも面会を果たした。

内政と銃剣憲法
経済政策としてはアメリカ合衆国との交渉を進め、1875年に砂糖や米などの産品の輸入自由化を実現させた。しかし、1887年にはサンフォード・ドールらアメリカ系移民を中心とする勢力からの圧力に屈し、いわゆる「銃剣憲法」の受諾を余儀なくされた。この結果、国王の権限は大幅に制限され、富裕な移民層に有利な政治体制へと移行した。
文化的な功績と晩年
華やかな生活スタイルから「メリー・モナーク(陽気な君主)」の愛称で親しまれた。キリスト教宣教師によって抑圧されていた伝統的なフラを公に復活させたことは最大の功績の一つとされ、現在でもハワイ島では彼の名を冠した「メリー・モナーク・フェスティバル」が開催されている。また、ホノルルにイオラニ宮殿を建設したことでも知られている。
1890年に健康状態を悪化させたため、療養を兼ねてサンフランシスコへ渡ったが、1891年1月20日にパレスホテルで逝去した。王位は妹のリリウオカラニへと引き継がれた。
よくある質問
カラカウア王はいつからいつまで在位していましたか?
「メリー・モナーク」と呼ばれる理由は何ですか?
カラカウア王の死後、誰が王位を継承しましたか?
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参考文献
- 松岡正剛. “反米大陸”. 松岡正剛の千夜一夜・遊蕩篇. 2012年4月7日閲覧。