日本の歴史
越後国:歴史と行政区分の変遷

越後国は、かつて日本の北陸道に属した令制国です。現在の新潟県本州部分を主な領域とし、古代の蝦夷政策の拠点から明治期の廃藩置県に至るまでの歴史と変遷を解説します。
📌 主なポイント
- ✓越後国は北陸道に属する令制国で、現在の新潟県本州部分を主な領域とした。
- ✓7世紀末に越国から分割されて成立し、古代には蝦夷政策の拠点として重要な役割を果たした。
- ✓和銅5年(712年)に出羽国が分離したことで、越後国の領域が確定した。
- ✓明治維新後の廃藩置県や府県統合を経て、現在の新潟県の行政区域が形成された。
越後国(えちごのくに)は、かつて日本の行政区分であった令制国の一つです。北陸道に属し、現在の新潟県本州部分および粟島をその領域としていました。別称として「越州(えっしゅう)」とも呼ばれます。
古代の成立と蝦夷政策
越後国の前身は、4世紀頃に存在した久比岐国造や高志深江国造などの豪族の領域です。律令制の施行に伴い、これらが統合・再編されました。7世紀末、文武天皇元年(697年)以前に「越国(こしのくに)」が分割され、磐船郡と渟足郡からなる越後国が成立しました。当初は日本海側における蝦夷政策の辺境拠点としての性格が強く、大宝2年(702年)には越中国から頸城郡、古志郡、魚沼郡、蒲原郡の四郡を編入しました。
和銅元年(708年)には出羽郡が設置され、七郡体制となりました。その後、和銅5年(712年)に出羽国が分離独立したことで、越後国の基本的な領域が確定しました。大和政権は蝦夷地への版図拡大のため、大化3年(647年)に渟足柵、大化4年(648年)に磐舟柵を築造し、南方の人民を移民させることで開発と統治を進めました。
近世から明治維新へ
江戸時代には、幕府領や複数の藩領が混在する複雑な統治体制が敷かれていました。明治維新期には戊辰戦争の舞台となり、新政府軍による制圧を経て、越後府、柏崎県、新潟県といった行政区画の再編が繰り返されました。
明治4年(1871年)の廃藩置県を経て、明治9年(1876年)の第2次府県統合により、現在の新潟県とほぼ重なる領域が確定しました。なお、蒲原郡の一部(後の東蒲原郡)は一時福島県の管轄となりましたが、明治19年(1886年)に新潟県へ編入され、現在の新潟県の形が整いました。
主要施設
- 越後国府:現在の新潟県上越市付近に置かれたと推定されています。
- 一宮:彌彦神社(新潟県西蒲原郡弥彦村)および居多神社(新潟県上越市)が挙げられます。
よくある質問
越後国の別称は何ですか?
越後国は「越州(えっしゅう)」とも呼ばれます。
越後国の一宮はどこですか?
彌彦神社(弥彦村)および居多神社(上越市)が越後国の一宮とされています。
現在の新潟県と越後国の領域は同じですか?
ほぼ重なりますが、明治時代に福島県から東蒲原郡が編入されるなどの変遷を経て、現在の新潟県の形が確定しました。
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参考文献
- 『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)
- 旧高旧領取調帳データベース