日本の歴史
江戸幕府の対外政策と「鎖国」体制の歴史的実態

江戸幕府による「鎖国」政策の形成過程や、オランダ・中国・朝鮮・琉球を通じた「四つの口」での貿易体制、および用語の成立史について解説します。
📌 主なポイント
- ✓「鎖国」という言葉は、江戸時代の蘭学者である志筑忠雄がエンゲルベルト・ケンペルの『日本誌』の一部を翻訳した『鎖国論』で初めて用いたものである。
- ✓一般的に鎖国期間とされるのは、1639年のポルトガル船入港禁止から1854年の日米和親条約締結までの約215年間である。
- ✓幕府は完全に孤立していたわけではなく、長崎・対馬・薩摩・松前の「四つの口」を通じて、オランダ、中国、朝鮮、琉球などとの限定的な貿易や外交を行っていた。
鎖国(さこく)とは、江戸時代において江戸幕府がオランダや中国(明および清)との限られた関係を除き、キリスト教国の人の来航や日本人の出入国を厳しく制限・統制した対外政策、およびそこから生じた諸状況を指す後世の講学上の用語である。
一般的には、1639年(寛永16年)のポルトガル船入港禁止から、1854年(嘉永7年)の日米和親条約締結に至るまでの約215年間を指すことが多い。ただし、完全な国際的孤立状態にあったわけではなく、特定の窓口を通じて限定的な貿易や外交が維持されていた。
用語の成立と変遷
「鎖国」という言葉は、江戸時代の蘭学者である志筑忠雄が1801年(享和元年)に成立させた『鎖国論』において初めて使用された。
ドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルが著作『日本誌』のなかで論じた日本国の出国・入国禁止に関する章を志筑が和訳した際、適当な語として新造したものである。当時は出版されず写本として一部の知識階層に伝わったのみであり、幕府の法令として「鎖国」という公称が存在したわけではない。この用語が本格的に定着したのは幕末から明治時代以降のことである。
「鎖国」体制の形成過程
対外関係の統制は第2代将軍徳川秀忠の治世に始まり、第3代将軍徳川家光の治世にかけて段階的に進められた。
- 1612年(慶長17年):幕領に禁教令が出される。
- 1616年(元和2年):中国船以外の外国船の入港先を長崎および平戸に限定する。
- 1633年(寛永10年):第1次鎖国令が発令され、奉書船以外の渡航や5年以上海外に居留する日本人の帰国が禁止される。
- 1635年(寛永12年):第3次鎖国令により、中国・オランダなど外国船の入港が長崎に限定され、日本人の東南アジア方面への渡航および帰国が全面的に禁止される。
- 1639年(寛永16年):第5次鎖国令によってポルトガル船の入港が禁止され、鎖国体制が完成した。
「四つの口」と貿易・情報収集体制
完全な孤立ではなかった江戸時代の日本は、主に対外関係を維持する4つの窓口(四つの口)を有していた。
- 長崎口:幕府直轄地である長崎において、オランダ東インド会社および中国商人(唐船)との貿易が行われた。
- 対馬口:対馬藩を通じて、朝鮮国との正規の外交・貿易(通信)が行われた。
- 薩摩口:薩摩藩を通じて、琉球王国との関係が維持された。
- 松前口:松前藩を通じて、蝦夷地のアイヌ民族や北方との交易が行われた。
また、鎖国下であっても海外情報の収集は重視され、長崎に来航するオランダ船や中国船からそれぞれ「オランダ風説書」や「唐船風説書」が提出され、幕府は世界の動向を把握していた。
よくある質問
「鎖国」という言葉は江戸時代から使われていたのですか?
いいえ、江戸時代当時には「鎖国」という公称や言葉は使われていませんでした。この言葉は、1801年に蘭学者の志筑忠雄が翻訳した『鎖国論』の中で初めて造られ、明治以降に広く定着した歴史用語です。
鎖国中、日本は完全に外国と断絶していたのですか?
いいえ、完全な断絶ではありませんでした。長崎のオランダ商館および中国船との貿易のほか、朝鮮国、琉球王国、蝦夷地(アイヌとの交易)という「四つの口」を通じて、限定的な外交や貿易が継続されていました。
幕府はどのように海外の情報を得ていたのですか?
長崎に来航するオランダ船の船長等から「オランダ風説書」を、中国船から「唐船風説書」を毎年提出させ、世界情勢や中国の動向などの情報を詳細に収集していました。
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参考文献
- 志筑忠雄訳『鎖国論』(写本)、1801年。
- 荒野泰典『近世日本と東アジア』東京大学出版会、1988年。
- 松方冬子『オランダ風説書と近世日本』東京大学出版会、2007年。