幕末から明治期の政治家・軍人:榎本武揚の生涯と事績

📌 主なポイント
- ✓1836年に江戸で生まれ、昌平坂学問所や長崎海軍伝習所で近代科学や航海術を修得した。
- ✓幕府のオランダ留学を経て、軍艦「開陽丸」を率いて帰国し、幕府海軍の中核を担った。
- ✓戊辰戦争において旧幕府艦隊を率いて箱館に赴き、箱館政権の総裁を務めた。
- ✓明治政府に出仕後、駐露特命全権公使として樺太・千島交換条約を締結した。
- ✓初代逓信大臣をはじめ、文部、外務、農商務の各大臣を歴任した。
- ✓東京農業大学の前身となる農業学校や、電気学会などの学術・産業団体の創設に尽力した。
榎本 武揚(えのもと たけあき、1836年10月5日〈天保7年8月25日〉 - 1908年〈明治41年〉10月26日)は、日本の幕臣、官僚、海軍軍人、政治家。海軍中将、正二位、勲一等、子爵。
伊能忠敬の弟子であった幕臣・榎本武規の次男として江戸に生まれ、昌平坂学問所や長崎海軍伝習所で近代的な航海術や科学技術を学んだ。その後、幕府の軍艦発注に伴いオランダへ留学し、国際法や機関学などの最先端の知見を修得した。帰国後は幕府海軍の中心的指導者となり、戊辰戦争では旧幕府艦隊を率いて蝦夷地へ脱走。箱館政権(いわゆる蝦夷共和国)の総裁として新政府軍と戦った。
箱館戦争の敗北により投獄されたものの、敵将であった黒田清隆らの尽力により死刑を免れて釈放された。その後は明治政府に出仕し、開拓使による北海道の資源調査や、駐露特命全権公使としての「樺太・千島交換条約」の締結など、重要な外交・行政の任を担った。内閣制度発足後は初代逓信大臣をはじめ、文部大臣、外務大臣、農商務大臣などの閣僚を歴任した。さらに、実業や学術、農業教育の分野でも多くの団体や学校(東京農業大学の前身など)の設立に関与し、近代日本の形成期に多方面で足跡を残した。
生い立ちとオランダ留学
天保7年(1836年)、江戸下谷御徒町の組屋敷で西丸御徒目付・榎本武規の次男として生まれた。幼少期から漢学を学び、後に昌平坂学問所に入学する。嘉永6年(1853年)に修了した後、安政2年(1855年)に長崎海軍伝習所の聴講生となり、翌年には第2期生として正式に入学した。ここではオランダ人教師カッテンディーケやポンペらから機関学や化学、航海術を学び、その才能と熱意を高く評価された。
文久元年(1861年)以降、幕府がオランダに発注した蒸気軍艦「開陽丸」の回航計画に伴い、文久3年(1863年)にオランダへ留学した。ロッテルダムに到着後、ハーグで船舶運用術、砲術、蒸気機関学、化学、国際法を学び、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争の観戦武官としての見学や、クルップ社の訪問など、欧州の近代工業と軍事技術を広く視察した。慶応3年(1867年)3月に竣工した開陽丸を自ら率いて横浜港へ帰国し、幕府の軍艦役・開陽丸乗組頭取に任ぜられた。
戊辰戦争と箱館戦争
大政奉還後の慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北し、徳川慶喜が江戸へ引き揚げた後も、榎本は幕府海軍の艦隊を率いて徹底抗戦の姿勢を貫いた。同年4月、新政府軍への艦隊引渡要求を拒絶し、旧幕府軍の残存勢力や兵士を乗せて品川沖から脱走。奥羽越列藩同盟の支援を試みたのち、同年10月に蝦夷地に上陸し、五稜郭を占領した。
12月には士官以上の選挙によって蝦夷地の統治組織の総裁に選出された。しかし、新政府軍による本格的な反攻に加え、主力艦であった開陽丸の座礁喪失や、新政府側に引き渡された装甲艦「甲鉄」の参入などにより形勢は悪化し、明治2年(1869年)5月の箱館総攻撃の末に降伏した。
明治政府での官僚・政治家としての活動
降伏後は東京の京橋にあった糾問所に投獄され死刑をも覚悟したが、旧幕府軍との交渉にあたった黒田清隆らの強い助命嘆願により、明治4年(1871年)に特赦された。釈放後は明治政府に出仕し、開拓使御用掛として北海道の開墾や資源開発にあたった。
明治7年(1874年)には駐露特命全権公使に就任し、サンクトペテルブルクにおいてロシア政府との交渉に臨み、明治10年(1877年)に「樺太・千島交換条約」を締結した。帰国後は外務大輔、海軍卿を経て、清国駐箚特命全権公使などを歴任した。
内閣制度の発足後は、第1次伊藤内閣および黒田内閣で初代逓信大臣(1885年〜1889年)を務めたのを皮切りに、文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任した。閣僚としては、電信・郵便制度の整備や、法制・教育行政の構築に携わった。
晩年と社会貢献
公職を退いた後も、榎本は日本の近代化に向けた民間活動に力を注いだ。メキシコへの移民事業を推進するための殖民協会を創立したほか、東京地学協会、電気学会、日本化学会(工業化学会)などの学術団体の設立に深く関わった。また、農業教育の重要性を痛感し、徳川育英会による育英黌農業科(現在の東京農業大学の前身)の創設を主導した。明治41年(1908年)に72歳で死去した。
よくある質問
榎本武揚はどのような経歴の人物ですか?
箱館戦争後になぜ処刑されなかったのですか?
樺太・千島交換条約とはどのようなものですか?
政治家としてどのような役職を務めましたか?
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参考文献
- 加茂儀一 『榎本武揚』 中央公論社、1960年。
- 井黒弥太郎 『榎本武揚』 吉川弘文館〈人物叢書〉、1968年。
- 合田一道 『人間・榎本武揚』 藤原書店、2014年。