歴史

閔妃暗殺事件(乙未事変)の歴史的背景と概要

閔妃暗殺事件(乙未事変)の歴史的背景と概要
1895年10月8日に発生した閔妃暗殺事件(乙未事変)の歴史的背景や事件の経緯、事後の影響について解説する百科事典記事です。

📌 主なポイント

  • 乙未事変は1895年10月8日に発生した。
  • 李氏朝鮮の王妃であった閔妃が景福宮で暗殺された。
  • 事件の計画には日本公使の三浦梧楼らが深く関与した。

乙未事変(いつびじへん)は、1895年(明治28年)10月8日に朝鮮・ソウルの景福宮で発生した、李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃であった閔妃(明成皇后)が暗殺された事件である。

閔妃暗殺事件」や「閔妃殺害事件」とも称され、当時の日本公使であった三浦梧楼らの計画に基づき、日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士、および朝鮮人の訓練隊が王宮に乱入して引き起こされた。

歴史的背景

19世紀後半の李氏朝鮮は、列強の帝国主義的な進出に晒されており、開国に伴う不平等条約や経済的・軍事的な圧力の中で内政の混乱が続いていた。日清戦争の結果、日本が朝鮮半島における優位を確立したものの、ロシア・フランス・ドイツによる三国干渉によって日本の影響力が後退すると、閔妃勢力はロシアやアメリカなどの諸外国と接近し、親露政策へと舵を切った。

これに対し、親日派政権の維持と権益確保を図る日本側の危機感が高まり、日本公使の三浦梧楼らは、王妃の政敵であった興宣大院君を擁立して親日政権を樹立するクーデター計画を実行に移した。

事件の経緯

1895年10月8日未明、日本軍守備隊や警察官、日本人壮士、朝鮮訓練隊が景福宮に突入した。混乱の中で宮内大臣の李耕稙らが殺害され、王宮内で閔妃が殺害されたのち、その遺体は焼却されたとされる。当時、王宮に居合わせた外交関係者や周辺住民らによって、日本人らが関与したことが目撃された。

事件の影響とその後

事件後、日本政府は国際的な非難をかわすため、帰国した関係者を領事裁判権のもとで審理したがいずれも証拠不十分として無罪および免訴処分とした。一方、王妃を失った高宗は身の危険を感じ、1896年にはロシア公使館へのがれ込む「露館播遷」を行った。これにより日本とロシアの対立が深まり、後の日露戦争への伏線となった。

よくある質問

乙未事変とは何ですか?
1895年10月8日に李氏朝鮮の王都・ソウルの景福宮で、王妃であった閔妃が日本軍人や民間人、朝鮮人訓練隊によって殺害された事件です。
事件の首謀者は誰ですか?
当時の朝鮮駐在日本公使であった三浦梧楼が首謀者として知られており、外務省の外交史料などでもその計画と実行が記録されています。
事件後の高宗の動向はどうなりましたか?
高宗は身の危険や毒殺を恐れ、1896年にロシア公使館へ身を移す露館播遷を実行しました。

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参考文献

宮田節子「乙未事変」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館、2022年。外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会『新版 日本外交史辞典』。小松裕『「いのち」と帝国日本』小学館、2009年。