日本史
歴史的名称としての蝦夷地の概要と変遷

近世における蝦夷地の定義、江戸時代から明治初期にかけての歴史的変遷、および北海道への改称に至る過程について解説します。
📌 主なポイント
- ✓蝦夷地は、松前藩の和人地を除く北海道本島、樺太島、千島列島などの総称である。
- ✓江戸時代には東蝦夷地・西蝦夷地・北蝦夷地などに区分され、幕府による直轄化(天領化)と松前藩への返却が繰り返された。
- ✓1869年(明治2年)の太政官布告により、蝦夷地は「北海道」と改称され、複数の令制国が置かれた。
近世における蝦夷地(えぞち)とは、松前藩の城下町である松前を中心とする和人地を除く、北海道本島、および樺太島(サハリン)や千島列島を含む周辺の島々を合わせた地域の総称である。日本内地の五畿七道の外に置かれ、「蝦夷国」などの令制国が設置されていたわけではない。

地域の大半はアイヌの居住地であったが、沿岸部には和人も移り住み居住していた。またサハリン島では樺太アイヌに加え、ウィルタやニヴフも居住していた。1869年に北海道の名称が定められると、この名称は用いられなくなった。
歴史的経緯と行政の変遷
15世紀から16世紀にかけて、渡島半島南部の領主に成長した蠣崎氏は、豊臣秀吉や徳川家康から蝦夷地の支配権および交易権を公認された。江戸時代になると蠣崎氏は松前氏と改名して大名に列し、松前藩が成立した。江戸時代初期から中期にかけて、北海道太平洋側と千島を東蝦夷地、北海道日本海側と樺太を西蝦夷地と呼んだ。

寛政から文化期にかけて、幕府は南下政策を推し進めるロシアを警戒し、1799年に東蝦夷地を、1807年に西蝦夷地を天領とした。さらに1809年にはカラフト島の呼称を北蝦夷地と正式に定め、東北諸藩に出兵と警備を命じた。その後、文政4年(1821年)には蝦夷地の大半を松前藩へ返却したものの、諸外国との緊張の高まりを受け、安政2年(1855年)に松前城下を除く和人地と東西蝦夷地を再び天領としている。

明治維新と北海道への改称
明治2年5月18日(1869年6月27日)の箱館戦争終結をもって戊辰戦争が終了すると、同年9月20日(明治28月15日)、新政府は太政官布告によって蝦夷地に北海道という名称を与え、北蝦夷地は樺太と改称された。この時、従来の蝦夷地には以下の令制国が置かれた。
- 胆振国(山越郡を除く)
- 日高国
- 十勝国
- 釧路国
- 根室国
- 千島国
- 石狩国
- 天塩国
- 北見国
- 樺太
よくある質問
蝦夷地にはどのような地域が含まれていましたか?
松前藩の城下町を中心とする和人地を除く北海道本島、樺太島、千島列島などの周辺の島々が含まれていました。
蝦夷地という名称はいつまで使われましたか?
1869年(明治2年)9月に新政府が太政官布告によって北海道という名称を定め、北蝦夷地を樺太と改称したことにともない、用いられなくなりました。
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参考文献
北海道立文書館 『北海道の名前について』 / 寺島良安 『倭漢三才図会』 / 太政官布告『蝦夷地ヲ北海道ト称シ十一国ニ分割国名郡名ヲ定ム』