ロシア帝国貴族フェリックス・ユスポフ公の生涯とラスプーチン暗殺事件

📌 主なポイント
- ✓フェリックス・ユスポフ公は1887年にサンクトペテルブルクのモイカ宮殿で生まれたロシア帝国の貴族である。
- ✓1916年12月、ドミトリー大公らと共に皇帝夫妻に重用されていたグリゴリー・ラスプーチンをモイカ宮殿で暗殺した。
- ✓ロシア革命後はフランス・パリへ亡命し、1967年に80歳で死去した。
- ✓映画『怪僧ラスプーチン』の描写を巡るMGM社との訴訟で勝訴し、実在の人物をモデルにした映画製作に大きな影響を与えた。
フェリックス・フェリクソヴィッチ・ユスポフ公(ロシア語: Фе́ликс Фе́ликсович Юсу́пов, ラテン文字転写: Felix Feliksovich Youssoupov, 1887年3月23日 - 1967年9月27日)は、ロシア帝国の貴族である。ロマノフ朝末期に影響力を持っていたグリゴリー・ラスプーチンを暗殺した中心人物として歴史に名を残している。

生いたちとユスポフ家
1887年にサンクトペテルブルクのモイカ宮殿で生まれた。生家のユスポフ家は、14世紀タタールのエディゲ後裔を家祖とするロシア有数の名門貴族であり、ロシア皇帝であるロマノフ家をもしのぐ膨大な資産や鉱山、宮殿を保有していたとされる。

兄のニコライが1908年に決闘で死去したため、ユスポフ家の相続人となった。その後、1909年から1913年にかけてオックスフォード大学に留学し、美術を学んだほか同大学内にオックスフォード大学ロシア協会を設立した。
結婚と第一次世界大戦
1914年2月22日にニコライ2世の姪であるイリナ・アレクサンドロヴナと結婚した。第一次世界大戦の勃発時はドイツのベルリンに滞在していたため一時拘留されたが、親族の交渉等によりロシアへの帰国を果たした。

帰国後はモイカ宮殿の一部を負傷兵のための病院として開放した。1915年3月には一人娘のイリナが誕生している。同年後半には軍事アカデミーでの学習を経て連隊に所属した。
グリゴリー・ラスプーチン暗殺
ユスポフは、ロシア帝国の政治的混乱を招いていたとされるグリゴリー・ラスプーチンを排除するため、病気の治癒を口実に彼に接近して信頼関係を構築した。ドミトリー大公やウラジーミル・プリシケヴィチらの同志を引き入れ、1916年12月30日にモイカ宮殿の地下室で暗殺を実行した。

ラスプーチンは銃撃や殴打を受けても容易に絶命しなかったと伝えられており、最終的に遺体はネヴァ川に投げ捨てられた。事件後、ニコライ2世の命令によってユスポフは自領のベルゴロドへ追放された。
ロシア革命と亡命生活
1917年の二月革命によるロマノフ朝崩壊とロシア革命の混乱を経て、ユスポフは一族の宮殿から持ち出した宝石や絵画を手にクリミアへ移動し、イギリス軍艦「マールバラ」に搭乗してロシアを脱出した。マルタやイタリアを経てフランス・パリへと移住した。

パリでは亡命ロシア人への経済的支援を行ったほか、一族の財産を投じて事業等も試みたが、世界恐慌などの影響もあり生活は徐々に困窮した。晩年も妻イリナと共にパリで過ごし、1967年9月27日に80歳で死去した。遺体はサント=ジュヌヴィエーヴ=デ=ボワ・ロシア人墓地に埋葬された。
法廷闘争と映画化を巡る訴訟
ユスポフの生涯におけるもう一つの特筆すべき点は、暗殺事件に関する回顧録の出版や映画化を巡る法的な闘争である。1932年に公開された映画『怪僧ラスプーチン』において自身の妻を想起させるキャラクターが描かれたとして、制作会社MGMを相手取り名誉毀損訴訟を起こし、勝訴を収めた。この事例は、実在の人物をモデルにした創作物における配慮や法的責任の先駆けとなった。
よくある質問
フェリックス・ユスポフ公とはどのような人物ですか?
なぜグリゴリー・ラスプーチンを暗殺したのですか?
ラスプーチン暗殺後はどうなりましたか?
映画を巡る訴訟とは何ですか?
関連記事
参考文献
- Fuhrmann, Joseph T. (2013). Rasputin, the untold story. John Wiley & Sons, Inc.
- King, Greg (1995). The Man Who Killed Rasputin. Carol Publishing Group.
- 中野京子『名画で読み解く ロマノフ家12の物語』光文社、2014年。