第一次エチオピア戦争:アドワの戦いとアフリカ独立の維持

📌 主なポイント
- ✓第一次エチオピア戦争は1894年12月15日から1896年10月23日にかけて戦われた。
- ✓ウッチャリ条約におけるイタリア語版とアムハラ語版の解釈の相違が戦争の引き金となった。
- ✓1896年3月1日のアドワの戦いでエチオピア帝国軍がイタリア王国軍に勝利し、独立を維持した。
第一次エチオピア戦争(だいいちじエチオピアせんそう、英語: First Italo–Ethiopian War)は、1894年から1896年にかけて戦われた、エチオピア帝国とその植民地化を企図するイタリア王国との間の戦争である。ヨーロッパ側で当時用いられていた呼称であるアビシニアに由来し、第一次アビシニア戦争とも呼ばれる。

背景とウッチャリ条約の矛盾
当時、アフリカにおいて数少ない独立を維持していたエチオピアでは、地方軍閥(ラス)による争いや周辺国との紛争が続いていた。こうした中、ショア王国のメネリク2世はイタリアのエリトリア駐屯軍の支援を受けて対立勢力を破り、1889年3月25日にエチオピア皇帝へ即位した。
同年5月2日、メネリク2世とイタリアの間でウッチャリ条約が締結された。しかし、条約のイタリア語版とアムハラ語版の間で内容に重大な食い違いが存在した。イタリア語版ではエチオピアの外交権を制限し事実上の保護国化とする内容であった一方、アムハラ語版では他国との外交をイタリアに通告するという穏健な表現に留まっていた。1895年、この解釈の相違に気づいたメネリク2世が抗議の末に条約破棄を宣言したことで、両国の対立が決定的となった。
アドワの戦いとイタリアの敗北
イタリア政府はオレステ・バラティエリ将軍に対し、エリトリア駐屯軍による侵攻を命じた。イタリア側は非近代的なエチオピア軍を過小評価していたが、メネリク2世は諸外国からの調達により銃火器や大砲などの近代的な装備を整えていた。
1896年3月1日、アドワ北方において決定的な衝突であるアドワの戦いが発生した。バラティエリ将軍率いる約1万5,000人のイタリア軍に対し、メネリク2世率いる10万人を超えるエチオピア軍が迎え撃った。数と火力の両面で優勢に立ったエチオピア軍の猛攻により、イタリア軍は壊滅的な損害を受けて敗走した。
戦後と影響
アドワの戦いでの大敗はイタリア国内に大きな衝撃を与え、フランチェスコ・クリスピ政権は崩壊に至った。その後締結されたアディスアベバ条約により、エチオピア帝国の独立が正式に承認された。この勝利により、エチオピアは列強による本格的な植民地化の時代にあって独立を維持することに成功した。