日本の内閣

第1次若槻内閣の概要と終焉

第1次若槻内閣の概要と終焉
1926年から1927年にかけて存在した第1次若槻内閣の成立背景、政治的混迷、そして枢密院による否決に至るまでの経緯を解説します。

📌 主なポイント

  • 1926年1月30日に成立し、1927年4月20日に総辞職した。
  • 加藤高明の死去に伴い、若槻禮次郎が後継として就任した。
  • 枢密院の緊急勅令否決により総辞職した唯一の内閣である。

第1次若槻内閣は、1926年(大正15年)1月30日から1927年(昭和2年)4月20日まで続いた日本の内閣である。加藤高明首相の急逝を受け、内務大臣であった若槻禮次郎が第25代内閣総理大臣に任命され成立した。

成立の背景

前任の加藤高明内閣は、当初は立憲政友会との連立(護憲三派)であったが、政友会の離脱後は憲政会単独の少数与党内閣となっていた。若槻内閣もこの構造を引き継ぎ、政友会および政友本党との三党鼎立状態の中で政権運営を強いられた。

若槻禮次郎の肖像
第25代内閣総理大臣・若槻禮次郎

政治的混迷と昭和金融恐慌

普通選挙法の成立に伴い、各党間では政治家のスキャンダルを巡る対立が激化した。1926年には松島遊郭疑獄や陸軍機密費横領問題が発生し、政局は混迷を極めた。また、憲政会は選挙資金の不足から解散総選挙に踏み切ることができず、他党との連携による綱渡りの政権運営を余儀なくされた。

1927年3月、震災手形関連二法の審議中に東京渡辺銀行の取り付け騒ぎが発生し、昭和金融恐慌へと発展した。政府は日本銀行の非常貸出により沈静化を図ったが、経済情勢は極めて不安定な状況にあった。

総辞職の経緯

1927年4月、台湾銀行の不良債権問題に対し、政府は日本銀行による追加貸出を可能にするための政府保証を検討した。しかし、議会の承認を得る見込みがなかったため、若槻内閣は枢密院による緊急勅令でこれを乗り切ろうとした。これに対し、枢密院は憲法違反であるとして否決。内閣は総辞職に追い込まれた。枢密院の否決によって内閣が倒れたのは、日本の憲政史上この例のみである。

当時の新聞記事
内閣総辞職を報じる当時の新聞記事

よくある質問

第1次若槻内閣が総辞職した直接の理由は?
台湾銀行の不良債権問題に対する政府保証を緊急勅令で実施しようとした際、枢密院がこれを憲法違反として否決したためです。
若槻禮次郎が「嘘つき礼次郎」と呼ばれた理由は?
1927年3月に「6月に辞職する」という報道がなされた際、若槻首相がこれを全否定したものの、その後の政局混迷により辞職に至ったため、そのあだ名が定着しました。

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参考文献

  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
  • 升味準之輔『日本政治史 3 政党の凋落、総力戦体制』東京大学出版会、1988年。
  • 神戸大学附属図書館新聞記事文庫「緊急勅令案否決され若槻内閣総辞職」、1927年4月18日。