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フリッツ・カペラリ:新版画の先駆者となったオーストリア人画家

オーストリア出身の画家フリッツ・カペラリの生涯と、渡辺庄三郎との出会いによって生まれた「新版画」における功績を解説します。
📌 主なポイント
- ✓フリッツ・カペラリは1911年に来日したオーストリア出身の画家である。
- ✓渡辺庄三郎との出会いを経て、新版画の初期作品を制作した。
- ✓1915年制作の「雨中女学生の帰路の図」が新版画の第一号作品とされる。
フリッツ・カペラリ(Fritz Capelari、1884年 - 1950年)は、オーストリア出身の画家・版画家です。本名はフリードリッヒ・カペラリ。日本における「新版画」運動の初期において重要な役割を果たした人物として知られています。
日本での活動と新版画の誕生
カペラリは1911年に来日しました。1914年に第一次世界大戦が勃発した影響で帰国が困難となり、日本に滞在を続けることになります。東京の赤坂氷川町にアトリエを構え、油彩画などを制作していました。
1915年春、制作の参考資料を求めて京橋の渡辺版画店を訪れた際、店主である渡辺庄三郎と出会いました。この出会いが転機となり、渡辺の勧めによって木版画の制作を開始します。カペラリは渡辺から浮世絵の複製や道具の提供を受け、試作として「雨中女学生の帰路の図」を制作しました。これが新版画の記念すべき第一号作品とされています。

作風と影響
カペラリの作品には、浮世絵の伝統的な構図や技法の影響が色濃く反映されています。例えば、「女に戯る狆」や「鏡の前の女(立姿)」に見られる人物の配置や背景の省略は、鈴木春信の錦絵を彷彿とさせます。また、1916年の「枯野の富士」では葛飾北斎の影響が指摘されており、ぼかし摺りや刷毛を用いた新しい表現技法も試みられました。これらの作品は、当時の彫師や摺師と協力しながら制作されました。
後半生
1921年に日本を離れたカペラリは、その後約10年間にわたりヨーロッパ各地を巡りました。1932年に再びアジアへ戻りましたが、木版画の制作は行っていません。晩年は故郷であるオーストリアのブライブルクで過ごし、カリンシア(ケルンテン)・アート協会に所属して活動を続けました。
主な作品
- 「雨中女学生の帰路の図」(1915年)
- 「女に戯る狆」(1915年)
- 「鏡の前の女(立姿)」(1915年)
- 「濠端の松」(1915年)
- 「柘榴に白鳥」(1915年)
- 「枯野の富士」(1916年)
よくある質問
フリッツ・カペラリはなぜ日本に滞在することになったのですか?
1914年に勃発した第一次世界大戦の影響で、当時日本に滞在していたカペラリは帰国することが困難となり、そのまま日本に留まることになりました。
新版画とはどのようなものですか?
新版画は、伝統的な浮世絵の制作体制(絵師、彫師、摺師の分業)を維持しつつ、近代的な表現や画家の個性を重視した大正から昭和期にかけての木版画運動です。
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参考文献
- 横浜美術館編『アジアへの眼 外国人の浮世絵師たち』読売新聞社、1996年
- 東京都江戸東京博物館編『よみがえる浮世絵 うるわしき大正新版画展』朝日新聞社、2009年