日本の教育史

学制 (明治5年)

学制 (明治5年)
明治5年(1872年)に公布された日本初の近代的な学校教育制度「学制」について、その背景、目的、および全国的な学区制度の概要を解説します。

📌 主なポイント

  • 1872年(明治5年)9月4日に公布された日本初の近代学校教育法令である。
  • フランスの学制をモデルとしており、国民皆学の理念を掲げた。
  • 全国を学区に分ける階層的な学校配置計画を定めた。
  • 1879年(明治12年)の教育令公布により廃止された。

学制(明治5年8月2日太政官第214号)は、明治政府が1872年(明治5年)9月4日に公布した、日本で初めての近代的な学校教育制度を定めた法令である。フランスの学制をモデルとし、身分や性別を問わず国民全員が教育を受ける「国民皆学」の理念を掲げた。

日本国政府国章
日本国政府国章(準)

制度の概要

学制は全109章から構成され、教育行政の基本方針、学校の設置基準、教員の資格、学費の負担、海外留学生の規則などを包括的に規定した。全国を学区に分割し、その単位ごとに大学校、中学校、小学校を段階的に配置する計画が立てられた。

学区制

本法令は全国を8つの「大学区」に分け、さらに各大学区を中学区、小学区へと細分化する階層的な学区制を採用した。当初の計画では、全国に8つの大学校、256の中学校、53,760の小学校を設置することを目指していた。しかし、この計画は当時の日本の経済状況や国民の負担能力を考慮すると極めて野心的なものであり、翌1873年(明治6年)には大学区を7つに改めるなど、実情に合わせた修正が行われた。

学校種と教育体系

学制では、初等教育から高等教育に至るまでの学校種が詳細に定義された。小学校は尋常小学、女児小学、村落小学、貧人小学などに分類され、中学校や専門的な職業学校である「諸民学校」も規定された。大学は「高尚の諸学を教る専門科の学校」と位置づけられ、理学、文学、法学、医学の設置が定められた。

廃止とその後

学制は近代教育の礎となった一方で、過度な学費負担や地域の実情との乖離が指摘された。その後、1879年(明治12年)に教育令が公布されたことに伴い、学制は廃止された。この法令は、日本の近代化における教育の重要性を初めて国家レベルで明文化した点において、歴史的に重要な意義を持つ。

よくある質問

学制が公布された目的は何ですか?
身分や性別に関わらず、国民全員が教育を受ける「国民皆学」を実現し、近代国家としての基盤を整えることを目的としていました。
学制はいつまで有効でしたか?
1872年(明治5年)の公布から、1879年(明治12年)9月29日に教育令が施行されるまで有効でした。
学制ではどのような学校が定められていましたか?
小学校、中学校、大学校のほか、職業教育を目的とした諸民学校などが規定されていました。

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参考文献