日本史

明治初期の官職「議定」の制度と変遷

明治初期の官職「議定」の制度と変遷
明治維新期の王政復古に伴い設置された明治政府の最高官職「議定」について、三職の成立から政体書による変遷、職員令による廃止までを解説します。

📌 主なポイント

  • 議定は1868年1月3日(慶応3年12月9日)の王政復古の大号令により総裁・参与とともに設置された。
  • 初期の議定には皇族や公卿、有力諸侯など10名が任命された。
  • 1868年の政体書導入により議政官上局に置かれ、第一等官として法律制定や条約締結などを司った。
  • 1869年8月15日(明治2年7月8日)の職員令発布により廃止された。

議定(ぎじょう)は、慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古の大号令に伴い設置された、明治政府初期の最高官職の一つである。総裁・参与とともに「三職」を構成し、朝廷の中心となって新政権の基礎固めや重要政策の決定に当たった。

設置と初期の組織

1868年1月3日(慶応3年12月9日)、徳川幕府の廃止と新政府の樹立が宣言された際に「総裁」「議定」「参与」の三職が置かれた[1]。初期の議定には、仁和寺宮純仁親王、山階宮晃親王、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之、徳川慶勝、松平慶永、浅野茂勲、山内豊信、島津茂久の10名が任じられた[1]。その後、戊辰戦争の進展や組織改編に伴い、三条実美や岩倉具視らが副総裁および議定に就任し、軍事や外交の重要課題に対応した。

政体書による官制改革と議政官

1868年6月11日(慶応4年閏4月21日)、政体書に基づく官制改革が実施され、従来の三職制から太政官制へと移行した[2]。これに伴い議政官の上局に議定が置かれ、親王、諸王、公卿、諸侯がこれに充てられた[2]。官等は第一等官とされ、法律の制定、条約の締結、和戦の宣告、三等官以上の人事などを司る重要な役割を担った。

変遷と廃止

明治元年9月(1868年10月)以降、行政官への統合や一時的な議政官の廃止・再設置など、組織の統廃合が繰り返された[29]。明治2年5月13日(1869年6月22日)の政体改刪により、議定および参与は行政官に属し、輔相に次ぐ位置づけとなった[3]。また、同日より官吏公選が行われ、岩倉具視、徳大寺実則、鍋島直正らが選出された[3]。しかし、同年8月15日(明治2年7月8日)に施行された職員令によって議定職は廃止され、旧議定のメンバーは右大臣や大納言などの新たな官職へ移行した[6]。

よくある質問

議定とはどのような官職ですか?
明治維新初期の王政復古によって置かれた明治政府の最高官職の一つであり、総裁、参与とともに新政府の重要政務や立法に関与しました。
議定はいつ設置され、いつ廃止されましたか?
1868年1月3日(慶応3年12月9日)の王政復古に伴い設置され、1869年8月15日(明治2年7月8日)の職員令公布によって廃止されました。
初期の議定には誰が任命されましたか?
仁和寺宮純仁親王、山階宮晃親王、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之、徳川慶勝、松平慶永、浅野茂勲、山内豊信、島津茂久の10名が最初に任じられました。

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参考文献

内閣官報局『法令全書』慶応3年、明治2年。
アジア歴史資料センター(JACAR)関連公文書。