議奏 - 歴史的職制と朝廷運営における役割
📌 主なポイント
- ✓議奏は、律令制における太政官の上奏制度のほか、鎌倉時代初期や江戸時代中期以降に存在した公家の職制である。
- ✓江戸時代の議奏は定員4名で、宮中の林和靖間に待機して天皇に近侍し、公式な上奏や宣下の調整を行った。
- ✓江戸時代の議奏には羽林家や名家出身の35歳以上の近習経験者が任命され、幕府からも役料が支給された。
- ✓1868年1月3日(慶応3年12月9日)の王政復古に伴う官制改革により廃止された。
議奏(ぎそう)とは、日本における朝廷の職制の一つである。大きく分けて、律令制度のもとで太政官が政務を審議し天皇に上奏した仕組みと、鎌倉時代初期および江戸時代中期以降に公家に与えられた特定の職務の二つが存在する。
鎌倉時代初期の議奏
鎌倉時代初期における議奏は、文治元年(1185年)に源頼朝が後白河法皇に対して求めた廟堂改革要求に端を発する。頼朝は、朝廷の政治運営を刷新し自身の独裁を掣肘するため、平親宗や高階泰経ら12名の解官とともに、10名の公卿による朝政の運営を要求した。これが「議奏公卿」の体制とされる。
指名された公卿には徳大寺実定、三条実房、中御門宗家、中山忠親、藤原実家、土御門通親、吉田経房、藤原雅長、日野兼光、九条兼実らが含まれていた。しかし、これらの公卿の多くは突然の就任に困惑し、院庁別当として後白河法皇側に取り込まれていったため、議奏としての機能は徐々に停止した。もっとも、その後も臨時の必要に応じて設置された形跡が見られ、西園寺公衡の日記『公衡公記』の正応元年(1288年)正月の記事にもその名が登場している。
江戸時代の議奏制
江戸時代における議奏は、天皇に近侍し、勅命を公卿以下に伝え、議事を奏上することを職務とした。定員は4名であり、毎日交代で1名が宮中の「林和靖間」に昼夜待機して天皇に仕えた。
成立の背景と変遷
寛文3年1月5日(1663年)、幼少であった霊元天皇の補佐を目的として、葉室頼業・園基福・正親町実豊・東園基賢の4名が任命されたのが嚆矢である。この制度の背景には、当時院政を行っていた後水尾法皇の意向があったとされる。当初は「年寄衆」や「御側衆」などと呼ばれていたが、貞享3年12月7日(1686年)に霊元天皇が源頼朝の故事にちなんで「議奏」の名称を選定し、以降この名称で固定された。
職務と待遇
羽林家や名家出身の35歳以上の近習経験者が任命され、実質的な全日勤務とみなされた。天皇の側近として朝儀、人事、法制などの幅広い分野における諮問に応じ、天皇出御の際には常に従った。また、公式な会見を設定できるのは議奏のみであり、議奏を通さない会見に基づく上奏や宣下は法的に無効とされていた。
その重要性から、就任に際しては武家伝奏に血判誓書を提出するなどの厳重な手続が義務づけられた。役料として朝廷から20石が与えられたほか、延宝7年(1679年)以降は江戸幕府からも別途40石が支給された。
明治維新における廃止
1868年1月3日(慶応3年12月9日)の王政復古に伴い、摂関や幕府などの旧制度が廃絶されると同時に、議奏も廃止された。その後は暫定的な職制として「林和靖間詰」などが置かれたが、同年閏4月21日の政体書布告に伴い完全に廃止された。
よくある質問
議奏とはどのような職制ですか?
江戸時代の議奏の定員は何人でしたか?
議奏はいつ廃止されましたか?
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参考文献
- 本田慧子 「議奏(二)」『日本歴史大事典』第1巻、小学館、2000年。
- 田中暁龍 「議奏(近世)」『日本史大事典』第2巻、平凡社、1993年。
- 田中暁龍 『近世前期朝幕関係の研究』吉川弘文館、2011年。
- 林大樹 『天皇近臣と近世の朝廷』吉川弘文館、2021年。