日本の歴史

五榜の掲示の歴史的背景と統制の変遷

五榜の掲示の歴史的背景と統制の変遷
明治元年(1868年)に明治政府が発令した五榜の掲示について、その制定背景、江戸幕府からの統制の継承、および順次撤廃された経緯を解説します。

📌 主なポイント

  • 五榜の掲示は、1868年4月7日(慶応4年3月15日)に太政官布告第158号として発令された。
  • 第一札から第三札までの内容は、基本的に江戸幕府の統制を踏襲したものであった。
  • 第四札では万国公法の履行と外国人殺傷の禁止が掲げられ、新政府独自の姿勢を示した。
  • 1873年(明治6年)2月24日の太政官布告第68号により、すべての高札が除却され廃止された。

五榜の掲示(ごぼうのけいじ)は、明治元年(慶応4年)3月15日(1868年4月7日)に、太政官(明治政府)が民衆に向けて発した5つの高札による禁止令および統制措置である。明治政府が国内の民衆に対して出した最初の本格的な禁令として知られている。

日本国政府国章(準)
日本国政府国章(準)

制定の背景

明治新政府(京都朝廷)は、戊辰戦争の最中である慶応4年3月14日(1868年4月6日)に「五ヶ條ノ御誓文」および「億兆ヲ安撫シ国威ヲ宣揚被遊度ノ御宸翰」を天下に示した。その翌日である3月15日に、明治元年太政官布告第158号「諸国旧来ノ高札ヲ除却シ定三札覚二札ヲ掲示ス」によって、諸藩に対して「五榜の掲示」を掲示させる措置をとった。

五箇条の御誓文」が新しい国是であり、「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」が朝廷の公的な基本方針であったのに対し、「五榜の掲示」は新政府の支配下・影響下にある地域の高札場において実際に掲示された暫定的な統制措置であった。

五榜の掲示の内容と構造

五榜の掲示は、以下の5つの札で構成されていた。

  • 第一札: 五倫道徳の遵守および悪業の禁止
  • 第二札: 徒党・強訴・逃散の禁止
  • 第三札: 切支丹・邪宗門の厳禁
  • 第四札: 万国公法の履行および外国人殺傷の禁止
  • 第五札: 郷村脱走(脱籍浮浪化)の禁止

このうち第一札から第三札までは、江戸幕府がこれまで行ってきた社会統制をそのまま踏襲したものであった。第一札は君臣の義や親孝行といった五倫や憐れみを説き、第二札は集団による強訴や徒党を禁じ、第三札はキリスト教などの邪宗門を禁止した。これらは旧幕府の統制を引き継ぐものであったが、同時に旧来の高札そのものの廃棄も命じており、新政府の権威を示す性格も有していた。一方、第四札は万国公法の履行と外国人の保護・殺傷の禁止を掲げた明治政府独自の政策であり、第五札は古代律令制を彷彿とさせる脱籍の禁止であった。

掲示の撤廃と変遷

「五榜の掲示」は発令後、社会の変化や外交上の必要性から順次修正・撤廃されていった。

まず第三札に含まれていた「切支丹・邪宗門」の禁制については、掲示から48日後の慶応4年閏4月4日(1868年5月25日)に明治4年太政官布告第279号により文言が改められ、「切支丹宗門」と「邪宗門」とに分けられ、密告褒賞の規定が削除されるなどの変更が加えられた。

続いて明治4年10月4日(1871年11月16日)の太政官布告第516号により、第五札が除却された。さらに1873年(明治6年)2月24日の太政官布告第68号によって、残る第一札から第四札までの高札もすべて除却された。これにより、キリスト教の禁止を含んでいた従来の「五榜の掲示」はすべて廃止され、以降は個別の布告や法令による法治主義的な統制へと移行していくこととなった。

よくある質問

五榜の掲示とは何ですか?
明治元年(1868年)3月15日に、明治政府(太政官)が民衆に向けて発した5つの高札による禁止令および統制措置です。
五榜の掲示の内容はどのようなものでしたか?
五倫道徳の遵守、徒党・強訴・逃散の禁止、切支丹・邪宗門の厳禁、万国公法の履行、郷村脱走の禁止の5つで構成されていました。
五榜の掲示はいつ廃止されましたか?
第五札は明治4年(1871年)に除却され、残りの第一札から第四札も1873年(明治6年)2月24日の太政官布告によりすべて除却・廃止されました。

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参考文献

  • 諸国旧来ノ高札ヲ除却シ定三札覚二札ヲ掲示ス(太政官布告明治元年第158号)
  • 「慶応三年・慶応四年・明治元年-法令全書-内閣官報局」 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 田中彰著 『近代天皇制への道程』 吉川弘文館 1979年初版