日本政治史
護憲三派の成立と第二次護憲運動
大正時代に第二次護憲運動を推進した立憲政友会、憲政会、革新倶楽部の三政党による協力体制「護憲三派」について、その成立背景と政治的実態を解説します。
📌 主なポイント
- ✓護憲三派は1924年1月18日に立憲政友会、憲政会、革新倶楽部の三党首の会合により成立した。
- ✓第二次護憲運動の主要なスローガンは「憲政擁護」と「普通選挙の実現」であった。
- ✓三党の協力体制は、1925年の革新倶楽部の政友会吸収と第一次加藤高明内閣の辞職により解消された。
護憲三派(ごけんさんぱ)とは、大正時代に第二次護憲運動を推進するために結成された、立憲政友会、憲政会、革新倶楽部の三政党を指す呼称である。1924年(大正13年)1月18日、各党の党首である高橋是清(政友会)、加藤高明(憲政会)、犬養毅(革新倶楽部)の会合によって協力体制が成立した。
成立の背景と政治的実態
第二次護憲運動は「憲政擁護」と「普通選挙の実現」を主要なスローガンとして掲げた。しかし、この三党の協力関係は必ずしも一枚岩ではなく、各党の過去の経緯や政治的立場には複雑な差異が存在していた。
憲政会は長年野党の立場にあり、一貫して憲政擁護と普通選挙を主張してきた。一方で、立憲政友会はかつて普通選挙に対して慎重な姿勢をとっていた経緯があり、清浦奎吾内閣を「特権内閣」として攻撃するために、戦略的に護憲運動へと合流した側面が強い。革新倶楽部もまた、過去の政権への入閣実績から超然内閣批判には慎重な立場をとるなど、各党の思惑は必ずしも一致していなかった。
運動の終焉
護憲三派の協力体制は、1924年の総選挙での勝利を経て第一次加藤高明内閣の成立へとつながった。しかし、翌1925年には革新倶楽部が立憲政友会に吸収される形で解体され、第一次加藤高明内閣の総辞職とともに、護憲三派としての協力体制も事実上解消された。
歴史学者の筒井清忠は、この時期の政党政治について、単なる「護憲三派」という枠組みだけで捉えるのではなく、当時の政党間における合従連衡の複雑な実態を考慮する必要性を指摘している。
よくある質問
護憲三派を構成した政党はどこですか?
立憲政友会、憲政会、革新倶楽部の三政党です。
護憲三派が掲げた主な目的は何ですか?
憲政擁護(政党内閣の樹立)と普通選挙の実現を掲げていました。
なぜ護憲三派は一枚岩ではなかったと言われるのですか?
各党の過去の政治的経緯や普通選挙に対する姿勢に温度差があり、清浦内閣打倒という共通の目的のために戦略的に協力していた側面が強かったためです。
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大正デモクラシー普通選挙法政党政治立憲政友会憲政会
参考文献
- 望月和彦「大正デモクラシー期における政権再編」『桃山法学』第15号、2010年。
- 筒井清忠『昭和戦前期の政党政治』ちくま新書、2012年。