群馬事件:明治時代における自由民権運動の武装蜂起
📌 主なポイント
- ✓群馬事件は1884年(明治17年)5月に群馬県北甘楽郡で発生した。
- ✓松方デフレによる農民の困窮と、自由党急進派の反政府活動が背景となった。
- ✓湯浅理平、小林安兵衛、三浦桃之助らが中心となり、妙義山麓陣場ヶ原で蜂起した。
- ✓最終的に湯浅ら12名が有期徒刑、20人が罰金刑となった。
群馬事件(ぐんまじけん)は、1884年(明治17年)5月に群馬県北甘楽郡で発生した、自由党の急進派と農民による自由民権運動の激化事件である。加波山事件などに先立つ、政府転覆を目的とした初期の武装蜂起の一つとして知られている。
背景
1882年(明治15年)以降の松方デフレ政策により、全国的に農民層は深刻な経済的困窮と負債に苦しんでいた。群馬県北甘楽郡においても、30余りの村の村民が県に対して陳情を行うほどの状況であった。
当時、自由党本部の政府に対する妥協的な姿勢に不満を抱いていた群馬の自由党指導者・清水永三郎は、農民の困窮を利用して党勢の拡大を図り、集会を通じて反政府感情を煽った。1884年3月、清水は湯浅理平、小林安兵衛、三浦桃之助らの同志と共に、北甘楽郡周辺の農民のほか、猟師や博徒をも巻き込んだ政府転覆計画を立案した。しかし、同年4月に清水らが政府密偵謀殺の容疑をかけられて他県へ逃亡したため、最初の計画は頓挫した。
蜂起の経過
清水が上京した後も、湯浅、小林、三浦らは甘楽へ戻り、1884年5月初めに予定されていた日本鉄道高崎駅の開業式に乗じた農民蜂起を再び計画した。しかし、開業式典が延期されたため実行には至らなかった。三浦桃之助がこの状況を自由党本部へ報告したものの、党幹部は賛同せず、東京に滞在中の清水らからも制止された。
それでも農民たちの不満は収まらず、1884年5月15日、湯浅、小林、三浦らを中心に妙義山麓の陣場ヶ原で蜂起が実行された。当初の計画から目標が変更され、警察署や高崎鎮台分営の襲撃が掲げられた。参加人数については資料によって数十名、200名、あるいは数千名とする説など幅があり、正確な規模は定かではない。
群集は松井田警察分署を襲撃したものの、人数不足や士気の低下から高崎鎮台分営の襲撃は断念された。翌16日には、北甘楽郡丹生村の高利貸・岡部為作邸を打ちこわしたことで蜂起は収束に向かった。
事件の結末と影響
事件後、湯浅、小林、三浦らが相次いで逮捕され、妙義山中に潜伏していた残党も約1ヶ月のうちに検挙された。最終的な裁判の結果、湯浅、小林、三浦ら12名が有期徒刑に処され、20名が罰金刑を受けた。
本件は小規模な騒動にとどまったものの、経済的に困窮した農民層と自由党急進派が結びついた端緒であり、その後の自由民権運動の過激化や武装闘争の先駆けとなった歴史的事件である。