日本の歴史

明治初期の刑事司法機関:刑部省の歴史と役割

明治時代初期に設置された刑事司法機関「刑部省」の歴史、組織体制、弾正台との対立、および司法省への移行について詳しく解説します。

📌 主なポイント

  • 刑部省は1869年7月8日(明治2年5月29日)に制定された職員令によって設置された。
  • 前身である刑法官の刑事裁判事務や法典編纂事業を引き継いだ。
  • 実際の管轄は主に東京府内に限られ、地方の断獄事務は各府県の地方官が処理していた。
  • 職掌の重複から弾正台との間で対立や混乱が生じた。
  • 1871年7月9日(明治4年5月22日)の太政官布告により廃止され、事務は新たに設置された司法省へ引き継がれた。

刑部省(ぎょうぶしょう)は、明治時代初期の太政官制において、刑事司法および裁判事務を所管した中央官庁である。1869年(明治2年)の職員令によって設置され、短期間の存続を経て1871年(明治4年)に司法省へと統合された。

前身組織である刑法官の成立

明治政府は、1868年6月11日(慶応4年閏4月21日)に制定された政体書に基づき、太政官の権力を分掌する七官を置いた。その一つである刑法官は、刑事裁判事務を担当する機関として設置された。刑法官の長官である知官事の職掌は、律令制の用語を受け継ぎつつ「総判執法守律監察糺弾捕亡断獄」と定められていた。

職員令による刑部省の設置

1869年7月8日(明治2年5月29日)、太政官制の再編に伴う職員令が制定され、七官制に代わって二官六省制が導入された。これにより刑法官は廃止され、新たに刑部省が置かれた。

新設された刑部省では、長官である刑部卿(初代卿は正親町三条実愛)のもとで「鞠獄定刑名決疑獄」の職掌が定められ、前身の刑法官が担っていた刑事裁判事務や法典編纂事業が引き継がれた。ただし、当時の刑部省の直接的な管轄が及んだ範囲は主に東京府内に限定されており、それ以外の地域における断獄事務は、各府県の地方官によって処理されていた。

組織体制と弾正台との対立

刑部省内には、裁判実務を処理する判事や解部、さらに犯罪者の捕亡を担当する逮部が置かれ、同年11月には逮部司が設置された。

一方、職員令の制定に先立ち、刑法官の下にあった監察司が廃止されて弾正台が設置されていた。弾正台は、旧刑法官の職掌のうち「監察糺弾」の事務を引き継ぎ、官員の非違行為の糾弾等を担当するものとされた。しかし、刑部省と弾正台はともに旧刑法官の事務を分有して出発したため、監察や捕亡事務などをめぐって職掌が抵触することが多く、権限の帰属をめぐって対立や行政上の混乱を引き起こす要因となった。

司法省への統合と廃止

こうした組織間の対立や司法行政の一元化の必要性から、1871年7月9日(明治4年5月22日)の太政官布告により、刑部省と弾正台はともに廃止された。両者の組織は統合され、新たに司法省が設置された。同時に発令された太政官沙汰により、旧刑部省および弾正台が所管していた事務の一切はすべて司法省へと引き継がれ、明治初期の近代的な司法制度整備に向けた新たな段階へと移行した。

よくある質問

刑部省はいつ設置され、いつ廃止されましたか?
1869年7月8日(明治2年5月29日)に設置され、1871年7月9日(明治4年5月22日)に廃止されました。
刑部省の前身となった組織は何ですか?
明治元年閏4月に設置された「刑法官」が前身です。
刑部省は日本全国の裁判を管轄していましたか?
いいえ。実際に直接管轄が及んだのは東京府内にとどまり、それ以外の地域の断獄事務は各府県の地方官が処理していました。
なぜ刑部省は廃止されたのですか?
職掌が類似していた弾正台との間で権限をめぐる対立や混乱が生じたことなどを背景に、刑事司法行政の一元化を図るため、両者を統合して司法省が設置されたためです。

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参考文献

  • 大庭裕介 『司法省と近代国家の形成』 同成社、2020年。
  • 浅古弘、伊藤孝夫、上田信廣、神保文夫編 『日本法制史』 青林書院、2010年。
  • 伊藤孝夫 『日本近代法史講義』 有斐閣、2023年。
  • 横山晃一郎 「明治5年後の刑事手続改革と治罪法」『法制研究』第51巻第3/4号、1985年。