歴史
ハーグ密使事件の概要と歴史的背景

1907年に大韓帝国が高宗の密使をハーグの万国平和会議へ派遣し外交権回復を訴えたハーグ密使事件の経緯と影響について解説します。
📌 主なポイント
- ✓ハーグ密使事件は1907年に発生した。
- ✓大韓帝国の高宗皇帝がオランダ・ハーグの万国平和会議へ3人の密使を派遣した。
- ✓派遣された使節は李相卨、李儁、李瑋鍾の3人である。
- ✓事件の結果、高宗が退位し、第三次日韓協約が締結された。
ハーグ密使事件とは、1907年(明治40年)に大韓帝国の皇帝高宗が、オランダのハーグで開催されていた第2回万国平和会議へ3人の密使を派遣し、日本の干渉からの外交権回復を訴えようとした事件である。大韓民国では「ハーグ特使事件」とも呼ばれている。
背景と派遣の経緯
1905年(明治38年)に締結された第二次日韓協約により、大韓帝国は日本の保護国となり外交権を奪われていた。これに反発する国内の抗日派や海外の関係者らは、1907年6月にハーグで開催される万国平和会議を利用し、列強に対して条約の無効と外交権の保護を訴える計画を立てた。
派遣された使節は、元議政府参賛の李相卨、前平理院検事の李儁、そして前駐露公使館二等書記官の李瑋鍾の3人である。彼らは各国代表宛ての主張文を作成し、会議場へと向かった。

会議での活動と結果
ハーグに到着した使節団は公式な会議出席を試みたが、会議に参加していた列強諸国は、大韓帝国の外交権がすでに日本に属していることを理由にその出席を拒絶した。そのため、現地でのビラ配りや講演などの抗議行動を行ったものの、具体的な政治的成果を得ることはできなかった。
滞在中の7月14日には、使節の一人である李儁がハーグの宿泊先で客死した。この事態を受け、日本側は厳格な対応を求め、国内でも大きな報道がなされた。
事件の影響
事件の責任を問われた高宗皇帝は退位に追い込まれ、子の純宗が位を継いだ。同年7月24日には第三次日韓協約が締結され、大韓帝国は外交権に加えて内政権についても事実上日本に接収される結果となった。
よくある質問
ハーグ密使事件とは何ですか?
1907年に大韓帝国皇帝の高宗が、オランダのハーグで開催された万国平和会議に密使を送り、日本の保護下で奪われた外交権の回復を訴えた事件です。
誰が密使として派遣されましたか?
李相卨、李儁、李瑋鍾の3人が派遣されました。
事件はどのような結果に終わりましたか?
列強諸国から会議への出席を拒絶され、目立った成果は得られませんでした。その後、責任を問われた高宗が退位し、第三次日韓協約が締結されて内政権も失う結果となりました。
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参考文献
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版 「【コラム】外交で滅んだ国の外交行動」 2021年3月10日閲覧。大阪毎日新聞 各種記事(明治40年7月)。民団新聞 「ソウル市太極旗、李儁記念館に」 2005年9月14日。