原敬内閣の成立と施策に関する歴史的考察

📌 主なポイント
- ✓原内閣は1918年9月29日に成立した。
- ✓陸海国外務を除く国務大臣に立憲政友会の党員を起用し、本格的な政党内閣と称される。
- ✓1921年11月4日に原敬が暗殺されたことにより内閣は終焉を迎えた。
原内閣(はらないかく)は、衆議院議員であり立憲政友会総裁であった原敬が第19代内閣総理大臣に任命され、1918年(大正7年)9月29日から1921年(大正10年)11月13日まで続いた日本の内閣である。

内閣の成立背景
大正中期の国政において、立憲政友会は衆議院で一党優位状態を築いていた。しかし、天皇に対する首相の奏請権を事実上掌握していた筆頭元老の山縣有朋は政友会を敬遠しており、原敬の首相就任に難色を示していた。1918年、山縣系譜の藩閥直系である寺内正毅内閣が政友会の協力を得られず、健康上の理由から辞職に追い込まれると、山縣も容認せざるを得なくなり、1918年9月29日に原内閣が発足した。

主要な閣僚人事
陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣を除く国務大臣のポストに、立憲政友会の党員が多数起用されたことが最大の特徴である。この人事構成により、議会政治の歴史において「本格的政党内閣」と位置づけられている。大蔵大臣には高橋是清、内務大臣には床次竹二郎などが起用された。

主要な政策と動向
シベリア出兵への対応
ロシア革命への介入を目的として前内閣が開始したシベリア出兵に関し、原内閣はアメリカ合衆国の方針に協調する姿勢をとった。1918年10月にバイカル湖以西からの撤兵を閣議決定し、段階的な兵力削減を推進した。その後、尼港事件などの強硬論を呼ぶ事件が発生しつつも、陸軍参謀本部との調整を経て撤兵方針を維持した。

選挙権の拡大
普通選挙運動の高まりを受け、原内閣は公職選挙法を改正した。直接国税の納税要件を従来の10円から3円に引き下げることで、有権者層の拡大を図った。一方で、さらなる急進的な選挙権拡大要求に対しては慎重な姿勢をとり、1920年には衆議院を解散して第14回衆議院議員総選挙で政友会の勝利を導いた。

終焉と影響
1921年11月4日、原敬が東京駅で暗殺される事件(原敬暗殺事件)が発生し、内閣は突然の終焉を迎えた。その後は外務大臣の内田康哉が首相臨時代理を務めた後、高橋是清が後継首相に就任して政友会内閣が引き継がれた。




よくある質問
原内閣はなぜ「本格的政党内閣」と呼ばれるのですか?
原内閣はどのような経緯で終了しましたか?
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参考文献
- 加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』朝日出版社、2009年。
- 『官報』号外「叙任及辞令」、大正7年9月29日。
- 『官報』号外「叙任及辞令」「彙報」、大正10年11月4日。