ハルビン駅における伊藤博文暗殺事件

📌 主なポイント
- ✓事件発生日は1909年10月26日。
- ✓場所は清国(現・中国)のハルビン駅。
- ✓実行犯は朝鮮独立運動家の安重根。
- ✓伊藤博文は被弾から約30分後に死亡した。
ハルビン駅における伊藤博文暗殺事件は、1909年(明治42年)10月26日、清国(当時)のハルビン駅において、大日本帝国の初代内閣総理大臣であり、当時枢密院議長であった伊藤博文が狙撃され、死亡した事件である。実行犯は朝鮮独立運動家の安重根であった。
背景
日露戦争後の1905年、第二次日韓協約により大韓帝国の外交権が日本に委任され、伊藤博文は初代韓国統監に就任した。その後、1907年の第三次日韓協約により内政権も日本が掌握するに至った。これらの過程において、伊藤は韓国併合の推進者として、韓国の民族主義者から強い反感の対象となっていた。
実行犯である安重根は、これら条約が武力による圧迫の下で締結されたものと捉え、伊藤の排除が韓国の独立回復に不可欠であると判断した。1909年春、安は同志らと共に「東洋平和」の維持を誓い、断指を行うなどして決意を固めた。
事件の経過
1909年10月26日午前9時、伊藤博文を乗せた列車がハルビン駅に到着した。伊藤はロシア側の出迎えを受け、ホームで閲兵を行うために降車した。午前9時30分頃、安重根はロシア兵の隊列の間から伊藤に向けて拳銃を発砲した。伊藤は胸や腹部に被弾し、約30分後に死亡した。この銃撃により、随行していた川上俊彦ハルビン総領事らも負傷した。
安重根はその場でロシア官憲に逮捕された。逮捕の際、安は「大韓国万歳」を三唱したと伝えられている。伊藤の遺体はその後、大連を経由して日本へ移送され、11月4日に国葬が営まれた。
裁判とその後
事件後、安重根ら関係者はロシア当局から日本当局へ引き渡された。裁判は関東都督府地方法院で行われ、安重根は死刑判決を受け、1910年に執行された。この事件は、当時の日韓関係および国際情勢に大きな影響を与え、日本による韓国併合の動きを加速させる要因の一つとなった。
よくある質問
伊藤博文が暗殺された理由は?
安重根はその後どうなりましたか?
事件は当時の国際情勢にどのような影響を与えましたか?
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参考文献
- 坂井徳太郎『安重根』1933年。
- 許寿『安重根義士』1969年。
- 森長英三郎『明治大正史の視点』1969年。
- 麻田雅文『ハルビン駅の伊藤博文』2012年。