人物
林廣守:雅楽演奏家と国歌「君が代」の作曲

幕末から明治期にかけて活躍した雅楽演奏家、林廣守の生涯と功績。国歌「君が代」の作曲に関わった経緯や、雅楽の継承における役割について解説します。
📌 主なポイント
- ✓1831年、摂津国(現在の大阪府)の楽人一家に生まれる。
- ✓明治政府の宮内省雅楽局に所属し、雅楽の近代化と継承に貢献した。
- ✓1880年に国歌「君が代」の作曲(旋律案の提出)に関与した。
林廣守(はやし ひろもり、旧字体:林 廣守、1831年12月28日 - 1896年4月5日)は、幕末から明治時代にかけて活躍した雅楽演奏家です。日本の国歌である「君が代」の作曲者として知られています。

生涯と経歴
天保2年(1831年)、摂津国東成郡(現在の大阪府大阪市天王寺区)にて、四天王寺の楽人である林廣倫の三男として生まれました。林家は代々四天王寺に仕え、雅楽を伝承してきた家系です。廣守は幼少より養父である林廣就らから雅楽を学び、1841年に朝廷へ出仕しました。
明治維新後、1869年に明治天皇の東京行幸に伴い東京へ移り、宮内省雅楽局(現在の宮内庁楽部)に配属されました。1875年には政府の命により西洋音楽の学習を開始し、雅楽の伝統と西洋音楽の理論を融合させる役割を担いました。
国歌「君が代」への関与
1880年、林廣守は楽人を代表して国歌制定委員に選ばれました。同年10月に現在の「君が代」の旋律案を提出し、11月3日の天長節において初めて演奏が行われました。なお、この楽曲の旋律については宮内省式部職雅楽課の伶人である奥好義が付け、西洋風の和声については海軍軍楽教師のフランツ・エッケルトが担当したことが知られています。
雅楽の継承と晩年
林廣守は雅楽の復興と後進の育成に尽力し、特に廃絶の危機にあった笙(しょう)の技術継承において重要な役割を果たしました。1893年に退官するまで宮内省で雅楽の発展に寄与し、1896年に64歳で死去しました。彼の系統は近代以降の雅楽界に大きな影響を与えています。
よくある質問
林廣守は「君が代」を一人で作ったのですか?
林廣守が旋律案を提出しましたが、旋律の補作は奥好義が行い、西洋風の和声付けはフランツ・エッケルトが担当しました。
林廣守はどのような楽器を専門としていましたか?
主に雅楽の管楽器である「笙(しょう)」を専門としていました。
林廣守はいつ亡くなりましたか?
1896年(明治29年)4月5日に64歳で死去しました。
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雅楽君が代宮内庁楽部フランツ・エッケルト
参考文献
- 宮内省式部職雅楽課の伶人・奥好義による旋律補作およびフランツ・エッケルトによる和声付けの記録。
- 『新聞集成明治編年史』第九巻(国立国会図書館デジタルコレクション)。