歴史人物
江戸時代の経世論家・林子平の生涯と海防論

江戸時代後期の経世論家・林子平の生涯、著作『海国兵談』や『三国通覧図説』を通じた海防論の提唱、および「寛政の三奇人」としての足跡を解説する百科事典記事。
📌 主なポイント
- ✓林子平は江戸時代後期の経世論家であり、「寛政の三奇人」の一人と称される。
- ✓代表作『海国兵談』や『三国通覧図説』において日本の海防の必要性を強く説いた。
- ✓明治15年(1882年)に正五位を追贈された。
林 子平(はやし しへい、元文3年6月21日〈1738年8月6日〉 - 寛政5年6月21日〈1793年7月28日〉)は、江戸時代後期の経世論家である。諱は友直。のちに六無斎主人と号した。高山彦九郎・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の一人に数えられる。[3]

生涯と経歴
元文3年(1738年)、幕臣・岡村良通の次男として江戸に生まれた。父が浪人の身となったため、子平らは開業医であった叔父の林従吾(林道明)のもとで養われた。その後、姉が仙台藩主の側室(お清の方)となった縁などから、仙台藩士としての生活を送るようになった。
子平は教育政策や経済政策を藩上層部に進言するが採用されず、その後は禄を返上して全国を行脚した。長崎や江戸などで学び、大槻玄沢、宇田川玄随、桂川甫周、工藤平助ら当時の知識人と交友を深めた。
主要な著作と海防論
ロシアなどの外国の脅威に対する危機感から、子平は海防の重要性を説く著作を次々と世に送り出した。代表作である『三国通覧図説』や『海国兵談』では、日本の防衛体制の脆弱さを指摘し、海防の必要性を強く訴えた。
しかし、『海国兵談』は軍事書であり、幕政に対する提言を含んでいたため、当時は版木が没収されるなどの弾圧を受けた。子平はその後、仙台へ帰郷させられ蟄居の身となった。この処分の最中、自らの境遇を詠んだ「親も無し 妻無し子無し版木無し 金も無けれど死にたくも無し」という歌が伝えられている。
寛政5年6月21日(1793年7月28日)に死去した。享年56。墓所は宮城県仙台市青葉区の龍雲院にあり、寺の周辺の地名は彼の墓にちなみ「子平町」と改称されている。明治15年(1882年)には正五位を追贈された。[3]

よくある質問
林子平とはどのような人物ですか?
江戸時代後期の経世論家であり、ロシアなどの外国に対する海防の重要性を早くから訴えた人物です。『海国兵談』などの著作を残しました。
「寛政の三奇人」には誰が選ばれていますか?
林子平、高山彦九郎、蒲生君平の3名が「寛政の三奇人」として知られています。
林子平の代表作は何ですか?
代表的な著作として『海国兵談』や『三国通覧図説』が挙げられます。
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