日本史における非人の歴史と身分制度

📌 主なポイント
- ✓非人という言葉の由来は仏教用語にあり、本来は人間以外の存在を指していた。
- ✓江戸時代の非人は人別帳の枠内にあり、抱非人と野非人に分類されていた。
- ✓非人の主な生業は勧進であり、刑罰の執行下役や警察役、清掃などの業務も担当した。
非人(ひにん)とは、主に日本の中世において特定の職能や芸能に従事した人々の呼称であり、のちに被差別民としての色彩を帯びるようになった存在である。江戸時代においては、公的な身分制度における一つの身分として位置づけられた。
「非人」の語は仏教用語に由来するとされ、本来は人間以外の存在(天人や龍など)を指す言葉として『法華経』などに登場した。日本における文献上の初例としては、平安時代の842年(承和9年)に橘逸勢が反逆罪に問われ、姓や官位を剥奪されて「非人」の姓を与えられた例が挙げられる。
中世における非人の展開
中世の非人は、時代や地域によって多様な役割を担っていた。鎌倉時代には、叡尊や忍性による悲田院の再興に伴い、西大寺真言律宗のもとで組織化される動きが見られたほか、時宗の遊行に加わる者も存在した。叡尊らは非人救済を説き、文殊菩薩として信仰の対象とする側面もあった。当時の非人には、病者や障害者、あるいは罪を犯した者などが含まれることがあった。
江戸時代の身分と組織
江戸時代に入ると、非人は明確な身分として制度化された。いわゆる士農工商には含まれないものの、人別帳の枠内にあり、公家や医師、神人などと同様に身分制度上の位置づけを持っていた。非人は大きく「抱非人」と「野非人」に分けられる。
江戸においては、関東の非人は浅草の矢野弾左衛門の支配下に置かれた。江戸の非人組織は、車善七をはじめとする有力な非人頭が統括し、それぞれが割り当てられた小屋や地域を管理していた。

生業と役負担
非人の主な生業は勧進であり、小屋ごとに勧進場と呼ばれるテリトリーを持って活動した。また、公的な役負担として、検非違使や町方の下役として警察・刑行の補助業務、街頭の清掃、死刑囚の処刑や死体の埋葬、牢屋の雑事などに従事した。さらに、町や村の警備を担当する番非人(番太郎・番太)としての役割も担っていた。
穢多などの身分とは異なり、非人の身分は身元引受人の存在や一定期間の経過などの諸条件を満たすことで、元の身分に復帰することが認められていた(足洗い・足抜きなどと呼ばれる)。