人物
平塚らいてう:大正・昭和期の女性解放運動家

大正・昭和期の日本で活躍した思想家・女性解放運動家、平塚らいてうの生涯と活動を解説。雑誌『青鞜』の創刊や新婦人協会の設立、母性保護論争など、日本のフェミニズム運動の先駆者としての足跡を辿ります。
📌 主なポイント
- ✓1911年に女性文芸誌『青鞜』を創刊し、女性の自立を提唱した。
- ✓1919年に新婦人協会を設立し、女性の政治的権利獲得運動を主導した。
- ✓与謝野晶子との間で「母性保護論争」を展開し、当時の女性の社会参加について議論を深めた。
平塚らいてう(ひらつか らいちょう、1886年 - 1971年)は、日本の思想家、評論家、作家であり、日本の女性解放運動を牽引したフェミニストです。本名は平塚明(ひらつか はる)。大正時代に女性の自立を訴え、雑誌『青鞜』を創刊したことで知られ、その後の婦人参政権運動や平和運動においても中心的な役割を果たしました。
『青鞜』の創刊と「新しい女」
1911年(明治44年)、平塚は日本初の女性による女性のための文芸誌『青鞜』を創刊しました。創刊号に寄せた「元始、女性は太陽であった」という一節は、女性の権利獲得運動を象徴する言葉として広く知られています。この雑誌は、当時の良妻賢母教育に疑問を抱く女性たちに大きな影響を与え、平塚自身も「新しい女」として注目を集めました。
母性保護論争
平塚は、与謝野晶子との間で「母性保護論争」を繰り広げたことでも有名です。与謝野が国家による母性保護を「依頼主義」として批判したのに対し、平塚は恋愛の自由と母性の確立こそが女性の真の自立に不可欠であると主張しました。この論争は、当時の女性の権利や社会参加のあり方を問う重要な議論となりました。
新婦人協会の設立
1919年(大正8年)、平塚は市川房枝や奥むめおらと協力し、日本初の婦人運動団体である「新婦人協会」を設立しました。同協会は、治安警察法第5条の改正や婦人参政権の獲得を請願し、女性の政治的・社会的自由の確立を目指しました。1921年に運営から退きましたが、その活動は後の女性参政権実現に向けた礎となりました。
戦後の平和運動
第二次世界大戦後、平塚は反戦・平和運動に深く関与しました。1950年代には「再軍備反対婦人委員会」を結成するなど、平和を求める活動を推進し、生涯を通じて女性の権利と平和を訴え続けました。
よくある質問
「らいてう」という名前の由来は何ですか?
塩原事件後の傷心期に長野県で過ごした際、高山に棲む鳥である「雷鳥」に心引かれたことから名付けたと言われています。
『青鞜』とはどのような雑誌ですか?
1911年に創刊された日本初の女性による女性のための文芸誌です。女性の人間としての自覚と権利を主張する場として、当時の社会に大きな反響を呼びました。
母性保護論争とは何ですか?
国家による母性保護の是非をめぐり、平塚らいてうと与謝野晶子の間で交わされた論争です。女性の自立と社会保障のあり方について、当時の知識人たちを巻き込んだ重要な議論となりました。
関連記事
青鞜与謝野晶子市川房枝大正デモクラシー日本のフェミニズム
参考文献
- 平塚らいてう『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝』大月書店、1971年。
- 佐々木英昭『「新しい女」の到来 : 平塚らいてうと漱石』名古屋大学出版会、1994年。
- 中村圭子編『命みじかし恋せよ乙女 : 大正恋愛事件簿』河出書房新社、2017年。