広沢真臣:幕末から明治維新にかけて活躍した長州藩士・政治家

📌 主なポイント
- ✓天保4年(1834年)に長州藩士の家に生まれ、のちに波多野家および広沢家の養子・当主となった。
- ✓慶応2年の第二次征長講和交渉で幕府側の勝海舟と交渉するなど、倒幕運動や新政府樹立に向けた政治折衝で重要な役割を果たした。
- ✓明治新政府において参与や参議、民部官副知事を歴任し、維新の十傑の1人に数えられる。
- ✓明治4年(1871年)に東京の私邸で暗殺され、その下手人や黒幕は未解決のまま現在に至っている。
広沢 真臣(ひろさわ さねおみ、旧字体:廣澤 眞臣、天保4年12月29日〈1834年2月7日〉 - 明治4年1月9日〈1871年2月27日〉)は、日本の江戸時代末期(幕末)から明治時代初期にかけての武士(長州藩士)、政治家である。いわゆる「維新の十傑」の1人に数えられ、王政復古後は新政府の要職を務めて明治初期の国家体制の基礎固めに尽力した。
生涯
天保4年、長州藩士・柏村安利の四男として生まれる。弘化元年(1844年)12月に同藩士・波多野直忠の婿養子となり、波多野金吾と称した。藩校の明倫館で学び、嘉永6年(1853年)の黒船来航時には大森台場警衛に出張するなど、若年期から尊王攘夷派として活動に関わった。
元治元年(1864年)の禁門の変や第一次征長などに伴う藩内政争の中で恭順派が勢力を握った際、一時投獄されたが処刑は免れた。慶応元年(1865年)、高杉晋作や木戸孝允ら正義派が藩の実権を掌握すると、政務役として藩政に復帰し、同年4月に藩命によって広沢藤右衛門、さらに広沢兵助へと改名した。
幕末期の政治活動と倒幕運動
慶応年間に入ると、木戸孝允の代理や同僚として、薩摩藩や広島藩など他藩との交渉に奔走した。慶応2年(1866年)の第二次征長の講和交渉では、幕府側の勝海舟と安芸厳島で交渉を行い、また討幕に向けての諸藩との連携や連絡調整に深く関与した。慶応3年10月(1867年)には大久保利通らと共に討幕の密勅の降下にも尽力した。
明治新政府での活躍
慶応4年1月3日(1868年1月27日)の鳥羽・伏見の戦いの勃発とともに新政府の参与に任じられ、戊辰戦争期には海陸軍務掛や東征大総督府参謀などを歴任した。会津藩の処分をめぐっては寛典論を主張するなど、穏健かつ実務的な手腕を発揮した。
明治2年(1869年)には復古功臣として木戸孝允や大久保利通と同等の永世禄1,800石を賜り、民部官副知事や参議などの要職を務めた。同年4月には太政官において民部官が設置されるなど、中央官制の整備にも関わった。
暗殺事件と死後
明治4年1月9日(1871年2月27日)深夜、東京府麹町富士見町の私邸にて、突入した刺客により暗殺された。享年37。明治天皇は犯人逮捕を督促する異例の詔勅を発令したが、捜査対象が多数にのぼったものの下手人の特定には至らず、事件は未解決のまま推移した。
死後、正三位が贈られ、1921年(大正10年)には贈従二位が追贈された。明治12年(1879年)には維新の功が認められて広沢家は華族に列し、のちに嫡子の金次郎に伯爵位が授けられた。また、遺された『広沢真臣日記』は、木戸孝允や大久保利通の日記と並び、幕末維新史を解明する上での貴重な一級史料として高く評価されている。