日本史における禄(給与制度)の変遷と構造
📌 主なポイント
- ✓古代の律令制では、封戸・位禄・季禄などが貴族や官人への基本的な禄として支給された。
- ✓中世には荘園や知行国、鎌倉幕府の所領安堵など、土地の知行からの収益を給与とする仕組みが定着した。
- ✓近世の幕藩体制では石高制に基づき、地方知行や蔵米知行といった俸禄制が展開された。
- ✓明治9年(1876年)の金禄公債証書発行条例の発令(秩禄処分)により、日本の伝統的な禄制度は全廃された。
禄(ろく)とは、仕官している者に対して、その生活の資として給与された金銭や物資、あるいはその代替物を指す言葉である。日本の歴史において、禄の支給体系やその根拠となる制度は、時代ごとの社会構造や支配体制の変遷とともに大きく変化していった。
古代の律令制における禄
日本において法整備された禄の体系が登場したのは、大宝律令や養老律令の制定以降のことである。貴族や官人への基本的な支給としては、封戸(位封・職封など)、位禄、季禄が定められた。
身分の上下に応じて支給に差が設けられており、封戸からは租の半分と庸調の全部が封主に与えられた。また、位禄や季禄は諸国から徴収された庸調を財源として規定の物品が支給される仕組みであった。位封や位禄は職事や散位を問わず、保持する位階のみに基づいて支給されたため、両者を合わせて封禄(ほうろく)と称された。広義の封禄には、位田や職田といった田地による支給や、資人・事力といった人的な支給が含まれる場合もあった。
中国の制度では皇帝からの恩恵である「賜」と給与である「禄」が分離されていたが、日本では明確な分離はなされず、王権・朝廷に対する奉仕の代償として天皇から与えられる恩恵とみなされた。また、季禄や位禄の支給時に天皇への謝意を示す「賜禄儀」が行われるのも日本独自のシステムであった。
その後、財政難や時代経過に伴い、10世紀初頭には封戸の削減や、地方の国衙から集められた穎稲を代替品として支給する「禄物価法」などの対応が採られるようになった。
中世の荘園と知行国制度
12世紀の院政期に入ると、封戸制度は急速に崩壊し、貴族は荘園による土地の私有化や、国司の地位を私物化する知行国制度を通じて収益を得るようになった。源頼朝が鎌倉幕府を開くと、御家人との間で御恩と奉公の関係が結ばれ、所領安堵や新恩給与として土地の知行をあてがい、そこからの収益を給与とする仕組みが確立された。
こうした武家社会の動向は貴族社会にも影響を与え、中世を通じて、配下に土地の知行を保障し、その収益を生活の基盤とするあり方が定着していった。
近世の石高制と俸禄制
近世の幕藩体制下では、日本全国の土地が支配下に置かれ、将軍から大名・旗本・御家人へ、あるいは大名から家臣へと、石高制に基づいた土地や蔵米による知行が与えられるようになった。
家臣への支給形態としては、名目上の知行高に免(年貢率)を掛けた額を蔵米で支給する「蔵米知行」や、実際の手取額のみが明示される「蔵米取」が存在し、これらを合わせて俸禄制と称した。17世紀中期以降、武士階層の官僚化に伴い俸禄制への切り替えが進んだが、地方知行への回帰が行われるなど、地域や時期によって多様な運用がみられた。
また、幕末には関白を務めた鷹司政通などが封禄制度(位田・職田)の復活による朝廷再興を訴えたが、当時の幕府の財政難もあり実現には至らなかった。
明治維新と秩禄処分
明治維新後、旧藩主への賞典禄や旧家臣団の家禄の存在は政府財政を大きく圧迫した。明治2年(1869年)の版籍奉還以降、政府は家禄の整理を進め、明治9年(1876年)8月25日に「金禄公債証書発行条例」を公布し、禄を廃止して金禄公債を支給する秩禄処分を実行した。
この改革に伴う混乱や不当な支払い停止を訴える士族による運動の結果、明治30年(1897年)に家禄賞典禄処分法が成立し、正当な支払いを受けなかった者に対する補償への道が開かれた。同法は昭和23年(1948年)に廃止され、一連の秩禄処分にまつわる法的手続きは完全に終了した。
よくある質問
古代日本の「禄」にはどのような種類がありましたか?
近世の俸禄制における支給形態にはどのようなものがありますか?
秩禄処分とは何ですか?
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参考文献
- 高橋崇「封禄」『国史大辞典12』吉川弘文館、1991年。
- 鈴木寿「俸禄制」『国史大辞典12』吉川弘文館、1991年。
- 山下信一郎『日本古代の国家と給与制』吉川弘文館、2012年。
- 金炯辰「律令封禄の再興構想と関白鷹司政通」『近世後期の朝廷運営と朝幕関係』東京大学出版会、2025年。
- 落合弘樹「帝国議会における秩禄処分問題--家禄賞典禄処分法制定をめぐって」『人文学報』第73巻、1994年。