稲垣清 (海軍軍人)

📌 主なポイント
- ✓1915年11月23日、三重県一志郡川合村に生まれる。
- ✓1941年12月8日の真珠湾攻撃において、特殊潜航艇「甲標的」の乗組員として出撃し戦死した。
- ✓死後、二階級特進により海軍兵曹長となり、「真珠湾の九軍神」の一人として称えられた。
稲垣 清(いながき きよし、1915年〈大正4年〉11月23日 - 1941年〈昭和16年〉12月8日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃において、特殊潜航艇「甲標的」の搭乗員として出撃し戦死した。死後、二階級特進により最終階級は海軍兵曹長となり、のちに「真珠湾の九軍神」の一人とされた。

生涯と軍歴
三重県一志郡川合村(現・津市)に生まれる。1934年(昭和9年)6月に広島県呉市の呉海兵団へ入団し、訓練修了後に駆逐艦「早苗」乗組となった。その後、海軍水雷学校に入校して駆逐艦「呉竹」に着任し、高等科水雷術練習生課程を修了した。
1941年(昭和16年)11月18日、アメリカ太平洋艦隊の根拠地であったハワイ真珠湾への特別攻撃隊員として潜水艦「伊24」に乗り込み、広島県の倉橋島を出撃した。

真珠湾攻撃と最期
同年12月8日、特殊潜航艇の艇長である酒巻和男海軍少尉と共に真珠湾攻撃へ出撃した。出撃時に艇のジャイロ(羅針儀)の故障が判明したものの作戦が強行された。湾内を進撃中、米駆逐艦「ヘルム」に発見されて攻撃を受け、攻撃を回避する中で何度も座礁と離礁を繰り返した結果、魚雷発射管が破損した。さらに浸水による蓄電池からの有毒ガス発生なども重なり、作戦続行が不可能と判断して母艦への撤退を決意した。しかし、真珠湾の裏側にあたるワイマナロ湾で再び座礁し、行動不能となった。

艇の鹵獲(ろかく)を防ぐため、時限爆弾を仕掛けた上で酒巻少尉と共に脱出したものの、稲垣は漂流中に行方不明となった。同年12月8日、稲垣とみられる日本兵の遺体が米軍により浜辺で発見された。
死後の影響と顕彰
甲標的による真珠湾攻撃は1942年3月に公表され、稲垣らは「真珠湾の九軍神」として称えられた。戦死認定と二階級特進により海軍兵曹長となった。

1942年に葬儀が行われた生家には多くの弔問客が訪れ、家の前の道路は「稲垣通り」と呼ばれるようになった。1943年(昭和18年)4月8日には日比谷公園斎場にて合同海軍葬が執り行われ、靖国神社および三重県護国神社に祀られた。戦後、生き残り捕虜となった酒巻和男が墓参に訪れた際、遺族の間には複雑な想いが残されたことが回想されている。
よくある質問
稲垣清の最終階級は何ですか?
稲垣清はどのような作戦に参加しましたか?
稲垣清の遺体はどのように発見されましたか?
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参考文献
- 『海の九軍神 : 特別攻撃隊』豊川堂出版部、1943年。
- 『殉忠第一次第二次特別攻撃隊』春陽堂書店、1943年。
- 『毎日新聞』朝刊、2021年12月7日。