幕末・明治期の薩摩藩士および政治家:岩下方平の生涯

📌 主なポイント
- ✓1827年(文政10年)に薩摩国鹿児島城下の下加治屋町で生まれた。
- ✓慶応3年のパリ万国博覧会において「日本薩摩琉球国太守政府」使節団長を務めた。
- ✓明治20年(1887年)に維新の功績により子爵を授けられた。
岩下 方平(いわした みちひら / ほうへい、文政10年3月15日〈1827年4月10日〉 - 明治33年〈1900年〉8月14日)は、日本の武士(薩摩藩士)、官僚、政治家。勲一等子爵。通称は左次右衛門、左二。

生涯と経歴
文政10年、薩摩藩士・岩下亘の長男として鹿児島城下の下加治屋町に生まれる。その後、岩下典膳道格の養子となった。安政3年(1856年)、相良長基の紹介により30歳で平田銕胤の国学塾である気吹舎の門人となり、国学や尊王攘夷思想に触れた。
安政5年(1858年)以降の安政の大獄の折には江戸において水戸浪士と結託し、幕政の打開を図るも挫折して帰藩した。安政6年(1859年)11月には精忠組に参加。文久2年(1862年)には伏見で平田銕胤の嫡男である平田延胤と面会し、島津久光の挙兵上京の目的や寺田屋騒動の経緯について報告を行った。文久3年(1863年)9月には薩英戦争の和平交渉において正使を務め、その交渉の状況を師である平田銕胤への書翰を通じて詳細に伝えている。
明治維新と新政府での活動
慶応元年(1865年)に家老となり、慶応3年(1867年)のパリ万国博覧会では「日本薩摩琉球国太守政府」の使節団長として、野村宗七や市来政清ら藩士を率いて参加した。同年夏の帰国に際しては、シャルル・ド・モンブランや数名のフランス人技術者を伴って帰藩している。小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通らとともに藩政を主導し、倒幕運動に尽力した。王政復古の大号令が発せられた際には徴士参与として小御所会議に参席し、明治2年(1869年)9月には維新の功績により永世賞典禄1000石を下賜された。
明治新政府においては、京都府権知事や大阪府大参事、元老院議官、貴族院議員などを歴任した。明治20年(1887年)5月9日には維新の功によって子爵を授けられ、明治23年(1890年)10月20日には麝香間祗候となった。晩年は貴族院子爵議員として活動し、明治33年(1900年)8月14日に73歳で死去した。墓所は東京都港区の青山霊園にある。

栄典
- 1885年(明治18年)10月1日 - 正四位
- 1886年(明治19年)10月20日 - 従三位
- 1886年(明治19年)11月30日 - 勲二等旭日重光章
- 1887年(明治20年)5月9日 - 子爵
- 1894年(明治27年)5月21日 - 正三位
- 1890年(明治23年)10月22日 - 麝香間祗候
よくある質問
岩下方平はどのような人物ですか?
パリ万国博覧会における岩下方平の役割は何ですか?
岩下方平の最終的な爵位や栄典は何ですか?
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参考文献
- 我部政男・広瀬順晧編『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 下巻』柏書房、1995年。
- 宮地正人著「幕末平田国学と政治情報」、田中彰編『日本の近世 第18巻 近代国家への志向』中央公論社、1994年。
- 『官報』