儒学者(じゅがくしゃ)の歴史と社会的役割
📌 主なポイント
- ✓儒学を学び研究・教授する人は一般的に儒者(じゅしゃ、ずさ)とも称される。
- ✓日本の古代から中世においては、漢籍の一環として経典が学ばれており、「儒者」は独立した職業や身分ではなく学識者を指す言葉であった。
- ✓江戸時代になると専門的な読解・講釈を行う儒者が現れ、江戸幕府や諸藩に抱えられたほか、在野で活動する町儒者も登場した。
儒学者(じゅがくしゃ)とは、儒教を自らの行為規範に据えて学び、研究・教授する人物を指す言葉である。一般には儒者(じゅしゃ、ずさ)とも称され、特に儒学を学ぶ若者や修学者などは儒生(じゅせい)と呼ばれる。
語源と歴史的背景
中国の周代の初めごろには、六芸を講じる者が「儒」と呼ばれており、のちに転じて学者全般を指す言葉となった。諸子百家の学説が興ると、特に孔子の門流が儒家と称されるようになり、そこに属する学者を儒者と呼ぶようになった。
日本における儒者の展開
儒教が日本に伝来した古代から中世にかけては、紀伝・明経・明法・算道の四道を講じる者が四道儒者と称された。清原氏や中原氏などの博士がその代表例であるが、当時は漢籍の一環として経典が学ばれており、博士、仏僧、神職といったそれぞれの職域や身分において受容されていた。この段階では、単なる学識者を指す言葉であり、「儒者」という独立した職業や社会的身分は確立していなかった。
儒者の職および社会的身分が確立するのは近世以降である。戦国時代の末から江戸時代初期にかけて、政治的・学術的な知識として儒学が求められるようになり、中国や朝鮮からの漢字文献の輸入・流通が拡大した。これにより、専門的に漢籍の読解や講釈を行う専門家が現れ、彼らが儒者と呼ばれるようになった。
江戸時代における処遇と生活基盤
江戸幕府が林羅山を登用したことを契機に、幕府には「御儒者(おじゅしゃ、おずさ)」という役職が設けられ、将軍への経典の講義や文学・学問の管轄が行われるようになった。林家は3代目の林信篤以降、従五位に叙され家禄3,500石を受けるなど厚遇された。新井白石も1,000石の禄を得ている。しかし、一般の御儒者の家禄は200石から300石程度であり、天保以降には教授所に勤める儒者は15人から30人扶持であった。諸藩においても、野中兼山や熊沢蕃山のような例を除けば、200石以下が一般的であった。
江戸時代初期の儒者の出身身分には浪人が多く、中期以降になると商人や医家が多くなった。武士以下の階層から輩出されながらも、精神的に武士を指導する地位に立つことがあった。また、中江藤樹や伊藤仁斎のように、在野で儒学を説く「町儒者」も出現した。彼らは窮乏することがあったものの、出仕せずに大名に儒学を講じて社会的地位を得る者も存在した。
享保以降になると、儒学の研究は経学、史学、考証学などに分化し、儒者と称される人々のあり方も多様化した。中国や朝鮮のように為政者が率先して儒学を担う体制とは異なり、日本における儒者の生活基盤は総じて弱いものであった。そのため、中には漢学者として儒教以外のテキストも視野に入れ、蘭学や兵学といった諸学へと転換する者もあった。