加波山事件:明治時代の自由民権運動における激化事件

📌 主なポイント
- ✓加波山事件は1884年9月23日に発生した自由民権運動の激化事件である。
- ✓栃木県令の三島通庸らの暗殺を計画したが、爆弾製造中の誤爆によって発覚した。
- ✓事件後、参加者らは加波山に立てこもり、政府転覆などを訴えたが、後に逮捕・起訴された。
- ✓政府はこの事件などを背景に、厳罰化を目的とした爆発物取締罰則を制定した。
加波山事件(かばさんじけん)は、1884年(明治17年)9月23日に発生した、栃木県令である三島通庸らの暗殺未遂および反政府武装蜂起事件である。自由民権運動が激しさを増す中で起きた、いわゆる激化事件の一つとして知られている。
事件の背景と計画
福島事件に関わった河野広躰らのグループを中心に、茨城県下館の富松正安や栃木県内の急進的な民権家らが結集した。彼らは茨城県古河市中田の文武館などを拠点に策謀を練り、栃木県庁の移転に伴う宇都宮の新庁舎落成式典において、民権運動を厳しく弾圧していた三島通庸県令や来賓らを爆殺する計画を立てた。
しかし、計画実行に向けて鯉沼九八郎が爆弾を製造していた際、不慮の誤爆事故が発生したことで計画が露見することになった。

加波山への立てこもりと蜂起
計画の発覚後、参加者らは茨城県の加波山山頂付近へ立てこもった。「圧制政府転覆」「自由の魁」といった旗を掲げ、周辺の警察署や豪商の襲撃を行うとともに、決起を呼びかけるビラを配布した。その後、再集結を約して一度は解散したものの、参加者は次々と身柄を拘束されていった。
裁判と社会的影響
この事件では、自由党幹部の内藤魯一や田中正造、小久保喜七をはじめとして、多数の民権家が逮捕された。政府は政治犯としてではなく、資金集めの際の強盗などの罪科を適用して裁判を進めたため、実際に起訴されたのは加波山へ立てこもった16人と、内藤や鯉沼らの若干名にとどまった。
裁判の結果、7名に死刑判決が下され(うち1名は刑執行前に獄死)、3名が無期懲役となった。獄死者を除く関係者も、後の特赦によって1894年までには出獄している。

また、政府はこの事件を契機として、爆発物の使用に対する取り締まりを旧刑法よりも厳格に行うため「爆発物取締罰則」を制定した。現在、茨城県筑西市下館地区の妙西寺には、事件で処刑された富松正安、保多駒吉、玉水嘉一、平尾八十吉の4名の墓所があり、市の指定文化財(史跡)に登録されている。