日本の城

鹿児島城(鶴丸城)の歴史と概要

鹿児島城(鶴丸城)の歴史と概要
鹿児島県鹿児島市に位置する鹿児島城(鶴丸城)の歴史、構造、および近年の復元事業について解説します。島津氏の居城として知られる史跡の概要。

📌 主なポイント

  • 1604年に島津忠恒によって完成した島津氏の居城である。
  • 天守を持たない質素な「屋形造」の城郭として知られる。
  • 2006年に日本100名城に選定された。
  • 2020年に大手門である御楼門が木造で復元された。

鹿児島城(かごしまじょう)は、鹿児島県鹿児島市城山町にかつて存在した江戸時代の城郭です。別名である鶴丸城(つるまるじょう)の名称でも広く知られています。島津氏の居城として、江戸時代から明治維新に至るまで薩摩藩の政治的中心地としての役割を果たしました。

歴史

慶長6年(1601年)、薩摩藩主・島津忠恒(後の家久)によって築城が開始され、慶長9年(1604年)に完成しました。関ヶ原の戦い後の情勢下で、徳川家康に対する防衛上の配慮から、防御に適した地として選定されました。島津義弘は当初、海岸に近い立地を懸念して築城に反対したと伝えられています。

江戸時代を通じて島津氏の居城として機能しましたが、幕末の薩英戦争ではイギリス軍艦からの砲撃を受けるなど、戦火の脅威にさらされた歴史もあります。明治維新後の1873年(明治6年)に火災により本丸が焼失し、1877年(明治10年)の西南戦争では二の丸も焼失しました。

構造と特徴

鹿児島城は、城山を背後に控え、その麓に屋形を築いた平山城です。公称77万石の大名の居城でありながら、天守や高石垣を持たない質素な「屋形造」の構造が特徴です。これは、江戸幕府に対する恭順の姿勢を示すためであったとされています。城山は籠城時の「後詰めの城」として聖域化され、立入禁止区域とされていました。

復元された御楼門
木造復元された御楼門

近年の動向と復元

2006年(平成18年)には「日本100名城」に選定されました。城跡には現在、鹿児島県歴史資料センター黎明館や鹿児島県立図書館などが建てられています。また、2020年(令和2年)には、かつての大手門である「御楼門」が木造で復元され、一般公開が開始されました。

鹿児島城の位置図
鹿児島市中心部における鹿児島城の位置
明治初期の御楼門
1873年以前に撮影された御楼門
石垣と水堀
現存する石垣と水堀
西南戦争の弾痕
西南戦争の際についたとされる弾痕が残る石垣

よくある質問

鹿児島城と鶴丸城の違いは何ですか?
正式名称は「鹿児島城」ですが、城山の麓に位置し、その形状が鶴が羽を広げたように見えることから「鶴丸城」という通称で広く親しまれています。
なぜ鹿児島城には天守がないのですか?
江戸幕府に対する恭順の姿勢を示すため、高層建築や高石垣を築かなかったとされています。
現在、城跡には何がありますか?
本丸跡には鹿児島県歴史資料センター黎明館、二の丸跡には鹿児島県立図書館や鹿児島市立美術館などの文化施設が建てられています。

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参考文献

  • 五味克夫「鹿児島城の沿革ー関係史料の紹介―」『鹿児島(鶴丸)城本丸跡』26巻、鹿児島県教育委員会、1983年。
  • 文化庁「文化審議会の答申(史跡名勝天然記念物の指定等)について」、2022年。
  • 鹿児島県「鹿児島(鶴丸)城跡について」。