日本の歴史

開拓使:明治政府による北海道開拓の行政機関

開拓使:明治政府による北海道開拓の行政機関
明治政府が北海道開拓のために設置した官庁「開拓使」の歴史、政策、治安維持、および1882年の廃止に至る経緯を解説します。

📌 主なポイント

  • 1869年7月8日に太政官の外局として設置された。
  • 黒田清隆主導のもと、10年間で1,000万円を投じる「開拓使十年計画」が実施された。
  • 札幌農学校や幌内炭鉱の開発など、北海道の近代産業の礎を築いた。
  • 1882年2月8日に廃止され、札幌・函館・根室の3県に再編された。

開拓使は、明治政府が蝦夷地(現在の北海道)の開拓および統治を目的として、1869年(明治2年)7月8日に設置した官庁です。太政官の外局として、北方防備と近代的な産業育成を担い、1882年(明治15年)2月8日に廃止されるまで北海道の行政を統括しました。

歴史的背景と設立

明治政府は、ロシアの南下に対する危機感から、北海道を「皇国の北門」と位置づけ、国家的な重要課題として開拓を推進しました。当初、北海道行政は箱館府が担っていましたが、全域を統括する機関として開拓使が設置されました。初代長官には鍋島直正が任命されましたが、実務は東久世通禧や島義勇らによって進められました。島義勇は札幌の都市計画を立案し、後の札幌発展の礎を築きました。

開拓使十年計画と産業育成

1871年(明治4年)、黒田清隆が樺太開拓使での視察を経て、北海道開拓に注力する「開拓使十年計画」を建議しました。これにより、10年間で1,000万円という大規模な予算が投じられました。黒田はホーレス・ケプロンら御雇外国人を招き、農業、鉱業、交通インフラの整備を推進しました。特に札幌農学校の設立や、幌内炭鉱の開発、ビール醸造所の開設などは、後の北海道産業の基盤となりました。

治安維持と警察制度の確立

開拓使は、開拓移民の増加や外国人との紛争に対応するため、独自の治安維持組織を整備しました。1872年(明治5年)には、近代警察の前身となる「邏卒(らそつ)」が函館に設置され、その後札幌や根室にも拡大されました。これらは後の北海道警察の源流となりました。

廃止とその後

十年計画の終了を控えた1881年(明治14年)、黒田清隆による官有物払下げ計画が世論の猛反発を招き、いわゆる「開拓使官有物払下げ事件」が発生しました。翌1882年2月8日、開拓使は廃止され、北海道は札幌県、函館県、根室県の3県に分割されました。

よくある質問

開拓使はいつまで存在しましたか?
1869年7月8日の設置から、1882年2月8日の廃止まで存在しました。
開拓使の主な目的は何でしたか?
ロシアの南下に対する北方防備と、北海道の近代的な開拓および産業育成を目的としていました。
開拓使官有物払下げ事件とは何ですか?
1881年に黒田清隆が推進した、開拓使の官有施設を安値で払い下げる計画に対し、世論や新聞が激しく批判した明治時代最大級の疑獄事件です。

関連記事

北海道黒田清隆札幌農学校明治維新北海道警察

参考文献

  • 太政官『官制改定職員令ヲ頒ツ』国立公文書館デジタルアーカイブ、1869年。
  • 太政官『開拓使ヲ廃シ函館札幌根室三県ヲ置ク』国立公文書館デジタルアーカイブ、1882年。
  • 北海道警察史編集委員会『北海道警察史(一)明治・大正編』1968年。
  • 田端宏ほか『北海道の歴史』山川出版社、2003年。